清武弘嗣選手が経験した苦い全少での思い出と父の熱き教え【前編】

2013年07月08日

インタビュー

清武家の子育て方針――みんながやっているからを言い訳にしない

そんな清武家では、約束事がいくつかあった。

ひとつは「みんながやってるから」と言い訳してはいけないこと。父・由光さんがその言葉を一番嫌っていたからだ。

「子どもたちが『みんなやっている』と言い出すと『誰なのか名前をあげろ』と詰め寄って、全員の名前を言わせていました。そんな言い訳をして、他人と一緒のことしかできないんだったら、サッカーなんかうまくならないし、人生もきちんと送れない。人がどうであろうが、あくまで自分は自分。ウチの子たちにはそれをわかってほしかったし、しっかりした自己判断力を持ってもらいたかったんです」

何かあれば母・豊美さんに相談するというのも、清武家のひとつのルール。サッカーで競争を強いられ、父親からも厳しくされる子どもたちにとって、母親は唯一の逃げ道だ。由光さんはそう考えて、豊美さんに生活面のコントロールを任せたのである。

「ウチの嫁さんはシンが強くてね。私が前に出ているように見えて、実は息子たちを采配していたのは母親だったと思います。携帯を買うとか、自転車を買うとか、息子たちはそういうことはまず母親に聞いて、判断を仰いでいました。甘えられるところは親しかないですから、そういう場所は作っておきたかったんです」と父は照れ笑いを浮かべる。

こんな本音を、小学生の息子たちは知る由もない。昭和の時代をほうふつさせるカミナリ親父にしか見えなかったことだろう。

そんな怖くて怖くてたまらない父親が、小学4年生のときからチームの監督に就任することになったのだから、弘嗣・功暉兄弟はどれほど緊張したことだろうか。ほんの小さなミスするだけでも父は容赦しない。試合帰りの車中で説教を聞かされることもあった。

「グラウンドでは監督、家では親でしょ。ホントやりにくかった。試合後も自分が悪かったときはメッチャ怒られました。細かいことも言われるし、いつも怖かったですよ」と清武本人も苦笑いするしかなかった。

 

※清武弘嗣選手が経験した苦い全少での思い出と父の熱き教え【後編】』へ続く

 


 

清武弘嗣 プロフィール
1989年11月12日、大分県大分市生まれ。MF。明治北SSC時代から高いテクニックと変幻自在のドリブルを武器に、将来を嘱望されるほど地元では有名な選手だった。99年の第24回、2001年の第26回全日本少年サッカー大会に、大分県代表として出場。第26回大会ではチーム最多の5得点をマークして、第3位に導く。中学3年生のときに当時、吉武博文氏がアドバイザーを務める大分トリニータU-15へ。2008年にトップチームへ昇格すると、2年目からレギュラーに定着した。2010年にセレッソ大阪へ加入。シーズン途中にドルトムントへ移籍した香川真司の穴を見事に埋め、乾貴士(フランクフルト)、家長昭博(蔚山現代)とともにチームを牽引した。2012年夏にニュルンベルクへ移籍。成長著しい若きサイドアタッカーだ。172㎝・66㎏

[プロサッカー選手になるまでの軌跡]
[小学1年生~6年生]明治北SSC
[中学1年生~2年生]カティオーラFC
[中学3年生]大分トリニータU‐15
[高校1年生~3年生]大分トリニータU‐18
[現在]セレッソ大阪→ニュルンベルク

 


 


僕らがサッカーボーイズだった頃
プロサッカー選手のジュニア時代

香川真司、岡崎慎司、清武弘嗣……
『プロ』になれた選手には、少年時代に共通点があった!
本人と、その家族・指導者・友人に聞いたサッカー人生の“原点”

【著者】元川悦子
【発行】株式会社カンゼン

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