美しく危険な男・ディエゴ・フォルランの知られざる生い立ちとは? 

2014年08月22日

サッカーエンタメ最前線

2014年、Jリーグに移籍してきた世界的フットボーラーである、ディエゴ・フォルラン選手(セレッソ大阪)。祖父、父はウルグアイ代表として活躍したサッカー一族であり、サラブレッドとして生を受けました。そこで今回は、フォルラン選手の知られざる生い立ちを『フットボールサミット第24回 美しく危険な男 フォルラン』のなかから一部紹介します。

文・写真●藤坂ガルシア千鶴

『フットボールサミット第24回 美しく危険な男 フォルラン』より一部転載


サッカーの名家に生を受けたディエゴ

 ディエゴ・フォルランは、1979年5月19日、ウルグアイの首都モンテビデオ市内の高級住宅地カラスコで生まれた。

 父パブロはプロのサッカー選手で、18歳のときに長身のCBとして同国の名門ペニャロールでプロデビューしたあと、ブラジルのサンパウロとクルゼイロでもプレーし、1966年と1974年にはウルグアイ代表としてワールドカップにも出場するほどの大スターだった。

 だがディエゴは――パブロによると――祖父の遺伝子からも多大な影響を受けていた。

 母方の祖父フアン・カルロス・コラソは、1930年代にアルゼンチンの強豪インデペンディエンテで大活躍したプロサッカー選手で、ウルグアイ代表のMFとしてプレーした経歴を持ち、現役引退後は代表の監督を務め、1959年と1967年にコパ・アメリカ優勝を成し遂げている。

 現在もインデペンディエンテのファンの間で、コラソは「うちのクラブで認められ愛された最初のウルグアイ人」として語り継がれている。

「あのコラソ」と「あのパブロ・フォルラン」の血を引き継いでいるとなれば、当然優れたタレントになると思われがちだが、レベルの差はあれど、似たような境遇の子どもは少なくない。

 なにせウルグアイは無類のサッカー大国。人口わずか340万人足らずの小さな国で、男児の8割がサッカーをし、週末になると全人口の実に70%もの人たちがジュニアリーグに携わる。

 試合に出場する少年たち、指導する監督やコーチ、子どもの試合に同伴して応援する親や兄弟、試合会場の売店の販売を手伝う人たち。まさに国全体がジュニアサッカーを軸に動く。

 そのためウルグアイの人たちには、必ずと言っていいほど、親戚の中にプロ、もしくはセミプロのサッカー選手がいる。

「親子でプロサッカー選手」というケースも、ウルグアイではそれほど珍しいことではない。

 そんな環境において、ダイヤモンドの原石は次々と発掘されるため、親の名声だけで優遇されることはない。

 過酷な競争に勝たなければ簡単にはプロになれないことを、パブロは誰よりも熟知していた。

フォルラン特集②
(父パブロとディエゴ少年)

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