「バルサに推薦」できるほどの潜在能力。次世代の日本代表DF・冨安健洋の少年時代

2018年11月16日

メンタル/教育
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次世代の日本代表を担う選手として、活躍が期待される冨安健洋。188cmの長身でありながら、スピード、テクニック、インテリジェンスも兼ね備えた“スケールの大きさ”を感じさせる選手だ。冨安の過去を知る関係者の話に耳を傾けると、その“スケールの大きさ”は小学生時代から放っていたという。逸材・冨安健洋の軌跡を振り返る。

僕らがサッカーボーイズだった頃4 夢への挑戦』より一部転載

取材・文●元川悦子 写真●Getty Images


ABU DHABI, UNITED ARAB EMIRATES - JANUARY 09:  Takehiro Tomiyasu of Japan looks on during the AFC Asian Cup Group F match between Japan and Turkmenistan at Al Nahyan Stadium on January 9, 2019 in Abu Dhabi, United Arab Emirates.  (Photo by Francois Nel/Getty Images)

「デカくて速くてうまい」桁外れの逸材

 日本代表が98年フランスワールドカップに初参戦し、世界の高い壁に跳ね返された5ヶ月後の11月、未来の大型DFが福岡県福岡市で誕生した。「健康で、太平洋のように広い心を持った人間に育ってほしい」という願いを込めて「健洋」と命名された赤ん坊はすくすくと育った。

 姉2人がいる3番目ということで、両親もゆったりとした気持ちで息子に接したようだ。「教育方針というのは特にありませんでしたが、基本的に自主性に任せて、善悪の判断だけは間違えないように見守ったつもりです」と母・佳代子さんは語る。

 健洋少年がサッカーと出会ったのは、淡水幼稚園年中の頃。全国規模で幼児教育を手掛けるコスモサッカークラブのサッカー教室があり、そこに入ることになったのだ。

「最初は姉2人がやっていた水泳を自分もやろうと思ったんですけど、祖母の家のランニングマシーンで遊んでいたら、あごを縫うケガをしてしまった(苦笑)。それで水泳ができなくなり、代わりにサッカー教室の体験に行ったんです。そしたらボールを蹴るのが楽しくなって、本格的に始めることになりました。1学年10人もいない少人数練習でしたけど、赤池先生という指導者に基本的なことを教わりました」と本人は当時を述懐する。

 三筑小学校に入学すると、同学校の少年団である三筑キッカーズに加入する。この頃の健洋少年の印象を辻寛二代表は懐かしそうにこう振り返る。

「タケが入ってきたのは小1の後半。学校から3分くらいのところに住んでいて、私が用事でそこまで行くとちょこちょこ走ってくる少年が目に入った。その走り方がキレイでビックリして『面白い子がおるな』と感じ、知り合いを介して誘ったのが始まりです。後から聞くとお母さんが陸上選手だったらしい。そのDNAを引き継いだのか、異常に走れました。お父さんも野球や剣道をやっていたようで、抜群の運動センスがありました。ウチではボランチがメインで、小5の時に1学年上のチームに入れて初めてセンターバックをさせましたけど、このレベルで収まる選手じゃないと痛感しましたね」

 辻代表が言うように、健洋少年の走力は頭抜けたものがあり、幼稚園のマラソン大会でも3年連続優勝というぶっちぎりの強さを誇った。三筑キッカーズは火・木・金曜日と週末の週5日活動しており、練習の中で素走りも多く取り入れていたが、彼はいつも嬉々として走っていたというから驚きだ。

「小3~小6まで教えましたが、『デカくて速くてうまい子がいるな』と思ったのがタケでした。シュート練習で『参加者20人中10人が決められなかったら罰走』というのをよくやらせたけど、タケは単に走れるだけじゃなくていつも全力。手を抜いたのを一度も見たことがないですね。試合中でも自分でポジションを修正したり、考えながら自主的にやっていたんで、僕がガミガミ怒るようなことは全くありませんでした」と次山コーチも健洋少年の大人びた一面を打ち明ける。

「タケをバルサに推薦した」

 高度な自主性は、両親の教育、仲間たちの外での遊びの中から養われたようだ。

「夏休みなんか1日中、サッカーしていました。朝からボールを蹴って、昼飯食べに帰ってまた1時頃からサッカーして、夕方5時から練習とか。1日10時間練習ですね(笑)。
 
 僕らが頻繁にやっていたのが『半サカ』。ハーフコートの5対5+GKみたいなもので、攻撃側が3回ミスしたら攻守交代するというルールなんですけど、これにひたすら熱中しました。両親も僕のことはほったらかしでしたし、『勉強しろ』とも言われなかった。遠征の送り迎えやお弁当などのサポートもしてくれましたし、自分がやりたいようにさせてくれたので、ホントに楽でした。
 
 外で駆け回るのが大好きだった僕はゲームができません。みんながウイイレとかをやってるのを今も後ろから見てるだけ(苦笑)。外で太陽を浴びて動き回ってたから、今があるのかなと思います」と冨安は楽しかった少年時代を回想する。
 
 高学年なると、小4で小6の公式戦にコンスタントに出場。2つ年上の井手口陽介(グロイター・フュルト/ドイツ2部)擁する油山カメリアFCとも対戦した。小5の時は新人戦県大会に出場し、小6になるとナショナルトレセンに選ばれるなど、地元では広く知られる存在になった。
 
 この頃は2009年に開校したバルセロナスクール博多にも週2回通っていた。高江麗央(ガンバ大阪)らレベルの高い選手とも一緒にプレーすることができ、よりサッカーへのモチベーションも高まった。イバン・パランコ・コーチ(元東京ヴェルディトップコーチ)との出会いも前向きな要素だった。

「バルサスクールでのタケはボランチ中心で、前を向いても、相手を背負ってもいいプレーをしていました。攻撃面ではチームを動かしたり、自ら前線に上がってシュートまで持ち込むこともでき、守備面も空中戦の強さ、スペースの管理、インターセプトのうまさなど高い能力を備えていた。サイドバックにもトライさせました。バルサにはサイドバックの攻撃参加を重視する哲学があり、彼はその資質を持っていましたから。私は3年間で3人をバルサに推薦しましたが、その1人がタケ。小学生をスペインに連れていくのは難しく、話は立ち消えになりましたが、それだけの潜在能力がある選手でした」
 
 小学校卒業時には同スクールのスペイン遠征にも参加。初めては驚きの連続だった。試合も数多くこなしたが、アトレチコ・マドリードには1-10で惨敗。ボランチで出た健洋少年にとって極めて衝撃的な出来事だったに違いない。「ネガティブな経験からも学ぶことはある」とイバンコーチも話したが、彼は三筑中学校入学と同時に入ったアビスパ福岡のアカデミーでそれを糧にしたはずだ。

DAEJEON, SOUTH KOREA - MAY 30:  Yeferson Soteldo of Venezuela holds off a challenge from Takehiro Tomiyasu of Japan during the FIFA U-20 World Cup Korea Republic 2017  Round of 16 match between Venezuela and Japan at Daejeon World Cup Stadium on May 30, 2017 in Daejeon, South Korea.  (Photo by Alex Livesey - FIFA/FIFA via Getty Images)
【「2017 FIFA U-20ワールドカップ」に参加した富安。全試合フル出場を果たすなど、守備の要として活躍した】

富安の絶対的な武器は「生真面目さ」

 250人もの少年が集まったセレクションを突破した冨安は2011年春からアビスパに通い始めた。練習拠点は香椎浜のフットボールセンターで自宅からは電車で20分。学校の後、すぐ練習に向かう多忙な日々を送るようになった。中1の時は白木千吉コーチが担当だったが、途中で中2チームに昇格。宮原裕司コーチ(現U-15監督)の指導を受けた。

「タケがセレクションに来た時も見ましたけど、技術的にはそんなに目立つ子ではなかった。ただ、その時点で身長がすでに170cmくらいあり、お母さんも大きいということで、将来有望とは感じていました。最初に驚かされたのは、ひたむきにチームの仕事をすること。ボールや練習用具、水や氷の準備などいろいろやることがありますけど、タケはどんな時もブレずに動く。チームに何が必要かを考えて率先して行動するんです。コツコツやる選手はプロになれるという見本を見せてくれていて、指導する側としては本当に楽でした」(宮原コーチ)
 
 プレー中も全てにおいて100%というのは、少年時代からのモットー。中1~2はセンターバックがメインだったが、全力で守備に行き過ぎて裏を取られたとしても、決してひるむことなく、次も積極的に行く。

「自分の中で限界を作らない姿勢は素晴らしい」と宮原コーチらスタッフも認めていた。「タケに関してもう1つ、秀でていたのは準備の質の高さ。試合でセットプレーの守備からボールを奪って一目散にシュートまで持ち込んだことがありましたけど、それができるのも先を見て、いい準備をしているから。サッカーノートを出させても自己分析をきちんとしているし、あの生真面目さは絶対的武器だと思います」と恩師も太鼓判を押した。
 
 中3からはボランチとDFの両方を担うようになり、守備の万能性に磨きをかけた。藤崎義孝監督(現アカデミーダイレクター)から人間性の部分を厳しく叩き込まれたのも大きかった。「藤崎さんの教えにはすごく影響を受けました」と本人も言う。
 
 この時点ですでにU15日本代表入りしており、堂安律(FCフローニンゲン/オランダ)らトップクラスの面々とプレーする機会も多かった。日の丸を背負う選手だからこそ、藤崎監督は周囲の見本になるような立ち振る舞いをしてほしいと考えていたはずだ。中学時代というのは学業や私生活も含めて揺れ動く頃だが、冨安には反抗期や精神面の不安定さも一切なかった。監督から言われたことを心に刻み付けて真面目にサッカーに取り組んでいたという。

 2014年には順調にU18に昇格。九州高校に通っていたが、高3になる時にプロ契約することが決まり、通信制高校に転校してサッカーの道に邁進した。

「1年早く上がらせてもらいましたけど、毎日の練習のレベルが全然違った。その1年があったから、早くJリーグデビューでき、試合にも定着できたと思います。2つのポジションをこなすのは難しいけど、どっちも極められる可能性はある。毎日毎日ひたすら頑張って、今を全力で過ごしたいと思います」

 18歳とは思えないほど地に足がついた発言をする冨安。彼はかつて「アジアの壁」の異名を取った井原正巳監督と重なるところがある。日本有数の名DFから直々に指導を受けられる恵まれた環境を最大限生かして、世界基準の守りのマルチプレーヤーになってほしい。家族も、指導に携わってきた人々も、冨安の輝かしい未来を心から待ち望んでいる。


<プロフィール>
冨安 健洋(とみやす たけひろ)

1998年11月5日生まれ、福岡県出身。小学生時代は三筑キッカーズでプレー。アビスパ福岡U-15、U-18を経てトップチームに昇格。2016シーズンはJ1で10試合に出場し、レギュラーの座をつかんだ。J2の舞台で再出発となったシーズンも先発出場を続け、安定したプレーを披露。日本代表としては、U-13から各世代別代表を経験し、2016年8月のリオ五輪ではトレーニングパートナーに選出された。同年10月にはAFC・U-19選手権にも出場し、日本のアジア制覇に貢献した。今年5月、U-20日本代表にも選出され、「FIFA U-20ワールドカップ韓国2017」に参加。2018年8月にキリンチャレンジカップに挑む日本代表に初招集された。


僕サカ4書影データ
【商品名】僕らがサッカーボーイズだった頃4 夢への挑戦
【著者】元川悦子
【発行】株式会社カンゼン
四六判/232ページ

価格:1,728円(税込)
四六判/232ページ
2018年5月21日発売

『ジュニアサッカーを応援しよう! 』人気連載企画の第4弾!!
日本代表や海外、Jリーグで活躍するプロサッカー選手たちがどんな少年時代を過ごしたのか。
本人たちへのインタビューだけではなく、彼らをささえた「家族」や「恩師」「仲間」の証言をもとに描いた、プロへ、そして日本代表へと上り詰めた軌跡の成長ストーリー。

 

※ご購入はジュニサカオンラインショップまで

 


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