コラム

小6で「大人のようなサッカーをしていた」。ガンバ大阪に見いだされた“井手口陽介”という才能

2017年09月01日

TOSU, JAPAN - AUGUST 26:  Riki Harakawa of Sagan Tosu and Yosuke Ideguchi of Gamba Osaka compete for the ball during the J.League J1 match between Sagan Tosu and Gamba Osaka at Best Amenity Stadium on August 26, 2017 in Tosu, Saga, Japan.  (Photo by Masahiro Ura - JL/Getty Images for DAZN)

井手口少年を支えた母親の存在

 日韓ワールドカップ開催が決まり、日本サッカー界が1998年フランスワールドカップ初出場に向け、前進しつつあった1996年8月、福岡県福岡市で井手口陽介は三男として誕生した。ガンバ大阪には、三兄弟の末っ子で成功したサッカー選手の象徴である遠藤、宇佐美がいるが、彼もまた八つ上の長兄・正昭さん、五つ上の次兄・稔さんの下で揉まれて、際立ったフットボーラーへと飛躍していく人生を送ることになった。

 2人の兄の影響で幼少期からボールを蹴るのが日常茶飯事になっていた陽介少年。保育園の同級生には、のちにJリーガーになる増山朝陽(現ヴィッセル神戸)もいて、お互い切磋琢磨していたようだ。

「陽ちゃんとはよく一緒にボールで遊んでいました。小学校は別だったけど、トレセンでまた一緒になってからは、よくFKの蹴り合いもしましたね。片方がキッカー、もう片方がGKになって蹴り合ったりして。彼が近くにいたことで、自分にとってもつねに刺激になっていたと思います」と増山は笑顔を見せていた。

 レベルの高い兄と同級生に囲まれて陽介少年が、クラブに入って本格的にプレーするようになるのは自然の流れだった。福岡市立弥生小学校1年のとき、最初に入ったのが、アビスパ福岡のサッカースクール。自宅のあった博多区から練習場のある東区雁ノ巣までは片道1時間近くかかる距離。週1回のトレーニングのために、母・亜紀子さんが送り迎えをしてくれたという。

 「アビスパはJリーグの育成組織のある地元唯一のチーム。そう聞いて入りました。それ以外の日は友達やお兄ちゃんたちとボールを蹴ることが多かったですね。2人でのパス交換とかホントに遊びの感覚だった。お兄ちゃんたちも優しかったし、楽しくやっていた記憶があります」と井手口は述懐する。

 3年生になると、アビスパのスクールで知り合った友人に紹介してもらう形で別のクラブにも入ることになる。それが中央スポーツクラブFC(中央FC)だ。同クラブは、現在はスクールのみの活動で大会へのエントリーは行っていないが、当時は優秀な選手だけでスペシャルクラスを結成し、福岡市内や県大会にも積極的に参戦していた。井手口は小3から5・6年生の高学年チームに入って試合にも帯同するほど、際立った存在感を示していたという。

 同クラブ時代に指導に携わっていた小松陽一監督(現ストリートサッカークラブ監督)が初めて会った頃の井手口について、こんな印象を語っている。

「陽介君はお母さんに連れられて中央FCにやってきました。真っ赤なピステに身を包み、丸坊主の頭というインパクトの強いスタイルを見たときには、『(元世界的ボクサーの)マイク・タイソンみたいだな』と思ったくらいです(笑)。

 当時の中央FCは475人もの小学生がスクールにいて、スクールからセレクトされた優秀選手約20人で構成されるスペシャルクラスが選手登録して、大会に出る形を取っていました。陽介君は週3回、そちらのトレーニングに参加していましたね。

 彼の自宅から練習場のあった東区の香椎浜までは車で片道30分以上かかり、親御さんの負担は大きかったと思います。でもお母さんは陽介君がやりたいことのために本当に全力投球されていた。『ああしろ、こうしろ』とうるさいことも一切言われない方で、献身的な親御さんだなと私自身も感じていました。そういうお母さんに見守られて、彼自身も伸び伸びやれたのかなと思います」と小松監督は語る。
 
 井手口自身も「お母さんがお弁当を作ってきてくれて、練習後に車の中で食べて、家に帰ってからまた夕飯を食べるのが日課だった」と話している。サッカー少年を支える母親の役割は非常に大きいのだ。

(中略)

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