「観光気分で行った」セレクションから一変。吉田麻也の“神がかり的人生”を支えた兄の存在

2018年06月11日

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いまや、日本代表の不動のセンターバックとなった吉田麻也選手(佐古SSS/名古屋グランパスU15/名古屋グランパスU18)。15日(金)に開幕する「2018 FIFA ワールドカップ ロシア大会」での活躍にも期待がかかります。今回は、大型ストライカーとして長崎県内で活躍していた吉田選手のジュニア時代を紹介していきます。

文●元川悦子 写真●GettyImages

『僕らがサッカーボーイズだった頃 プロサッカー選手のジュニア時代』より一部転載


YOKOHAMA, JAPAN - MAY 30:  Maya Yoshida of Japan in action during the international friendly match between Japan and Ghana at Nissan Stadium on May 30, 2018 in Yokohama, Kanagawa, Japan.  (Photo by Atsushi Tomura/Getty Images)

小さいときから親を思いやれる子だった

 江戸時代には日蘭貿易の玄関口にとなり、グラバー園や大浦天主堂などが外国に由来する観光施設が立ち並ぶ長崎市。異国情緒あふれるこの町で、88年8月に生を受けたのが、吉田麻也である。吉田有あり、昭子夫妻にはすでに長男・穂波、次男・未礼という年子の男の子がいたが、三男・麻也は長男より7つも下。歳が離れた末っ子の誕生を家族みんなが喜んだ。

 麻也という名前は、父・有さんの姉夫婦が名づけた。

「私たち夫婦が共稼ぎだったこともあり、子どもたちは近所に住んでいた夫の姉夫婦に預けていました。麻也の名前も姉夫婦がつけてくれて、『世界でも通用する名前をつけたい』という希望で、呼びやすい『マヤ』にしたと聞いています。こうやって世界で活躍するようになってくれて、うれしい限りです」(昭子さん)

 両親が忙しかったことから、麻也少年はいろんな人の手で育てられた。毎日のように面倒を見てくれた叔父叔母の家では「赤ちゃんにベビーフードを食べさせてたらダメ。特にカルシウムをたくさん取らないといけない」という考えがあり、魚のすり身やいりこをすったものをよく食べさせてもらっていた。両親がそれほど大きくないのに、彼が189センチもの長身になったのは、こうした食事の影響かもしれない。

 一方、歳の離れた兄たちも率先して面倒を見てくれた。特に長男・穂波さんは末っ子がかわいくてたまらず、ミルクをやったり、おしめを変えるのも率先してやっていた。「まるでお父さんみたいでした。一時期は穂波の言うことしか聞かないくらい、なついていましたね」と母は笑顔を見せる。

 昭子さんが出張のため、実家へ連れていくこともしばしばあったが、麻也少年は別れ際には笑顔で「バイバイ」と手を振るのが常だった。

「でも後から母に聞いたら、私がいなくなったあと、布団にもぐって、しくしく泣いていたらしいんです。悲しかったりつらかったりする姿を見せることで、心配をかけたくなかったんでしょう。小さいときから親を思いやれるところがあった。本当に手がかからない子でした」

麻也少年の『神がかり的人生』の始まり
 
 実は麻也少年は4〜5歳の頃、交通事故にあったことがある。そのときでさえ、多忙な両親は後から状況を知らされた。一緒にいたのは、穂波さんの同級生で、吉田が「第三の兄」と慕いつづけている清水寛さん。その彼が当時の様子を説明してくれた。

「ちっちゃい麻也を連れて町まで行き、コンビニに立ち寄って帰ろうかと思っていると、麻也が道路の反対側に知り合いを見つけて、飛び出してしまったんです。その瞬間、車にはねられ、5メートルくらい吹っ飛んで、路面電車の線路に落ちたんです。正直、僕は『どうしよう……』と息が止まる思いでした。ところが、5秒くらいしたら、麻也は何事もなかったみたいに立ち上がって、僕のところに一目散に駆け寄ってきたんです。それで抱きつくなり、ワーッと泣き出した。当然はねた人も心配して、念のため病院に連れて検査をしましたが、異常はなし。擦り傷を負っただけだったんで、こっちが面喰いました。あれが麻也の『神がかり的人生』の始まりだったのかなと、僕は思いましたね」

 奇跡的に事故の後遺症も一切なく、すくすくと成長していった麻也少年は、兄やその仲間と一緒にボールを蹴る機会が徐々に増えていった。すでにふたりの兄が少年団に入っていたこともあり、麻也少年も3〜4歳の頃から一緒にサッカーをしていた。幼稚園の頃はスクールに通うほどの熱の入れようだった。

 そんな彼が、当時から小学校時代にかけて特に頻繁に取り組んでいたのが、家の前の坂道でのボールコントロール練習だ。

「坂道だと、ボールを蹴ったら跳ね返ってくるじゃないですか。小さい子だと、そんなに飛ばないから、ちょうどいい感じで跳ね返ってくる。そういうコントロール練習をよくやってました」と本人も懐かしそうに話す。

 長男・穂波さんも弟のボール扱いの練習によく付き合った。兄はボールを転がす側に入るのだが、スピードや勢いを変化させれば、幼い弟はそれに合わせて動かないといけない。GKだった7歳年上の兄は、しっかりと顔を上げて視野を確保しながら正確に止めて蹴ることの重要性をよく理解していたから、小さな弟にもそれを叩きこもうとした。

「麻也は結構左足でも蹴れますし、視野も広い。今考えると、あの坂道の練習はすごくプラスになっているのかなと思いますね」

本格的にサッカーを始めたのは小学1年生のとき

 今は少年サッカー指導に携わっている穂波さんが冷静に分析する。麻也少年は小さい頃から体が大きく、同年代の仲間たちとボールを蹴るときは、高さと強さだけで勝てる傾向が強かった。が、兄たちの中に入るとただのちびっ子になってしまう。

「自分は全然、下手なんだ」と思わせ、一生懸命スキルを身につけようという意欲を高めてくれる年長者が身近にいたことは、彼のレベルアップへつながった。

 佐古小学校の少年団(のちに南陵FCに改名)に入って、本格的にサッカーを始めたのは小学1年生のとき。麻也少年は仁田小学校に通っていたのだが、その少年団は3年生からしか入れず、隣の佐古小学校は1年生から入れる。兄たちもそちらに入っていたから、彼も迷わずそちらを選んだ。

 といっても、長崎市内の場合、目と鼻の先にふたつの小学校が隣接しているケースが結構ある。仁田小と佐古小がまさにそうで、両校は歩いて2〜3分の距離。吉田家から通うのに支障は全くなかった。ただ、問題は帰り道の急坂だ。

「行きは自転車で2〜3分で着いてしまうけど、帰りは歩いて10分以上かかる」と穂波さんは話していたが、この登り坂で、足腰は相当鍛えられた。しかも南陵の指導者が厳しかったため、子どもの頃から苦しさを学ぶことができた。

父が撮影したビデオ映像が成長の助けに

 サッカー熱が高じた麻也少年は、平日週3回の南陵の練習に加え、仁田小の少年団の練習にも顔を出していた。学校の仲間とも仲が良く、和気あいあいとしていたが、試合になると別。両者が対戦するときは周りを巻きこんで物々しいムードに包まれた。南陵の方が老舗クラブで保護者たちのプライドは高い。一方の仁田小を応援する人たちのライバル意識も少なからずある。吉田は「クラシコ」と称したが、それだけ熾烈なバトルが繰り広げられたのだ。

「麻也が5年生のときに両チームの死闘がありました。長崎の別の小学校の保護者までが見に来て、すごい熱気だったのをよく覚えています。試合は仁田が早い段階で2点を入れて、南陵が1点を返したあと、仁田がさらに2点を加え、4対1になった。私たち親も『もうだめだ』と思っていました。ところが、試合終盤に南陵が3点を入れて同点に追いついたんです。結局、PK戦になり、どっちもエースが外したんですが、最終的に南陵が勝ちました。麻也はFWだったんですが、相手にピッタリつかれて結構激しく削られていたので、私たち親も心配になったほどです」

 昭子さんは忘れられない名勝負を今一度、振り返ってくれた。母がハラハラドキドキしながら息子のプレーに注目する傍らで、父はじっと黙ってビデオを撮影していた。有さんは中学・高校でサッカーをやっていたが、「子どもの指導はコーチに任せるべき。親は一切、口を出すな」という哲学をもっていて、自ら子どもたちを叱咤激励することはしなかった。

「父親はビデオを撮っているイメージしかない」と吉田も言う。 ただ、その映像が彼の成長の助けになったのだから、父もうれしいだろう。

「家に帰ってそのビデオをみんなで見て、兄ちゃんがちょいちょい何か言ってくるというのはよくありましたね。それが習慣になって、自分が出た試合の映像は毎回、見るようになりました。今では当たり前になっていることだけれど、その頃が始まりですね」

大型ストライカーとして大活躍

 今や日本代表の軸となった吉田は、自分のプレーやチーム全体を客観視できるところがひとつの長所だが、それも幼い頃からの積み重ねだった。
 
 小学5〜6年生になると、麻也少年は大型ストライカーとして地元ではそこそこ知られる存在になっていた。GKだった穂波さんを相手にシュート練習やヘディング練習を重ねた効果もあり、長崎市内の試合ではかなり活躍していた。

 長崎市トレセンにも選ばれたが、父・有さんが「麻也が抜けると南陵のチームが困るだろう」と言っていたことから、あまり練習には参加しなかったという。

 このため、選抜チームでの遠征や、全日本少年サッカー大会といった大舞台はほとんど経験していない。本人も「サッカーは一生懸命やっていたけど、まあまあ好きくらいだったかな。 他のことも楽しみたい気持ちが強かったですね」というくらい、軽く考えていた。「プロサッカー選手になりたい」と真剣に考えたこともなければ、家族にそう打ち明けたこともなかった。

「親の私が見ていても、『もうちょっと頑張ったらいいのに……』と思うことは、結構ありました。そこそこ努力はするけれど、何が何でも自分を追いこむような子ではなかったですから。サッカー以外にもバスケットやローラースケート、ギターやピアノとやりたいことがいっぱいあったようですし、私たちも忙しかったので、好きなことをしてくれればいいと思っていました。まさかプロ選手になるなんて、夢にも思いませんでしたね」と昭子さんは語る。

兄の行動でサッカー人生が一変

  そんな麻也少年の人生を激変させるきっかけを作ったのは、長男・穂波さんだった。

  彼が小学6年生になった春、博多で浪人生活を送っていた穂波さんは、インターネットカフェで大学検索を終えたあと、Jリーグ下部組織のセレクション情報をふと目にした。ジュニアユースのセレクションがあるのは名古屋グランパスU−15とガンバ大阪ジュニアユースだけ。「名古屋なら親戚がいるな」と思った兄は、店のスタッフに言ってこのページをプリントアウトしてもらい、「吉田麻也様」と宛名を書いた郵便を実家宛てに送った。

 長男から届いた紙を見た母は、末っ子に『どうする?』と尋ねた。本人は「まあ、行ってみるか」と、興味本位で答えた。

 多忙な母が長崎から名古屋へ息子を連れていくのは、通常ならかなり難しかった。麻也少年がラッキーだったのは、昭子さんの姪っ子が生まれたばかりだったこと。会いに行こうと思っていた日が名古屋U−15のセレクションと全く同じタイミングだったため、「じゃあ、ついでに行こうか」と息子に声をかけることができたのだ。
 
 本人も最初は観光気分だった。

「僕自身、観光のノリでした。名古屋へ行くのも二回目くらいだし、どうせムリだろうと思っていたから。Jリーグの下部組織っていうのは、全国から有名な選手が受けに来て、受かるのは一、二人だと考えていました。でも実際は名古屋に通える範囲の子しか来ないから、東海地域の選手ばかりなんですよね。試験官だったルーマニア人のアイザック・ドールに『え、長崎から来たの?』って言われたくらいです」

 場所はトヨタスポーツセンター。名鉄豊田線の三好ヶ丘駅から坂を上って15分くらい歩いたところにあるこの施設が、VVVフェンロ移籍まで10年近く、自分自身を磨く第二の故郷になるとは、本人も想像しなかっただろう。

 長崎では赤土の荒れたグラウンドでしかボールを蹴ったことのない麻也少年は、緑の天然芝が敷きつめられた美しいピッチ2面を目の当たりにして、激しい衝撃を受けた。

「これがプロの練習環境か……」

 自分のやっていることが、そら恐ろしいことのように思えてきた。それでも、ここまで来た以上、すごすごと逃げ帰るわけにもいかない。勇気を振り絞ってゲームにのぞんだ。
 
 一回目のゲームでは中盤でプレーして何とか突破。最終テストとなる二回目を迎えた。そこで、麻也少年の人の好さが出てしまう。坂道練習などを通じて左足のキックに磨きをかけてきた自信があったせいか、チームわけのときに「左サイドバックでもいいよ」と言ってしまったのだ。その通り、左サイドバックのポジションを託されたが、普段からやっていない位置で自分らしさを出せるはずがない。クロスどころか、ボールさえ満足に触れなかった。

 タイムアップの笛が鳴った瞬間、「完全に落ちたな」と思った。

 この様子を遠くから見ていた昭子さんにも、息子の落胆ぶりが手にとるようにわかった。 この直後、麻也少年ら5〜6人はアイザック・ドールに集められ、何かの紙を受け取った。母は参加者への労いが書かれた手紙だろうと考えていた。だが、歩いてきた息子からは驚くべき言葉が発せられた。

「受かったし」

 保護者にも説明があるということで、母・昭子さんはビックリして行ってみると、「来年ら名古屋に来られますか?」といきなり聞かれた。寮があるのかと思っていたが、名古屋の場合、ジュニアユース年代までは家族と同居して通わなければならなかった。そこで、まずは姪が暮らす名古屋の家に下宿させればいいと考え、「大丈夫です」と返答した。

「名古屋に行けばそれが夢の世界じゃなくなる」

 長崎に戻ると、サッカー好きの父・有さんは喜んでくれた。博多に住む穂波さんも、麻也少年の将来を考えたらプラスだと確信していた。

「長崎には国見高校とか全国レベルのチームはあるけれど、やっぱりJリーグのクラブがないし、情報が届くのが遅い。プロというものに対して現実味がない。でも名古屋に行けばそれが夢の世界じゃなくなる。僕はすごくいいと思いましたね」(穂波さん)

 とはいえ、かわいい末っ子が小学校を出てすぐに親元を離れて暮らすというのは、普通の親なら抵抗があるのではないか。しかも麻也少年が小学校を卒業するのと同時に、次男・未礼さんも東京の専門学校に進むことになった。家族がバラバラになれば経済的負担も増す。

 それでも吉田家の両親は「子どもたちにできることは全部やってやりたかった」とそれぞれの希望を優先した。

  2001年3月、麻也少年が長崎を離れる日が近づいた。が、その段階になって名古屋の親戚の家では彼を受け入れるのが難しくなってしまった。両親は仕事があって家に残らなければならないし、次男・未礼さんはすでに進路が決まっている。動けるのは、まだ大学進学が決まっていない長男・穂波さんだけだ。

 そこで両親は「一緒について行ってやってくれないか」と長男に打診した。穂波さんも自分が送った手紙がすべての発端になったことを自覚していた。せっかく拓けた弟の未来を家族の都合でつぶすわけにはいかない。

 普通の小学6年生よりは大人びているとはいえ、まだまだ人見知りすることもある幼い弟を守ってやりたい気持ちも強かったことから、受験をやめ、腹をくくって名古屋へ同行することを決意する。

  12歳の麻也少年は19歳の兄と共同生活を送りながら、名古屋グランパスU−15で本格的にプレーすることになった。

(続きは、『僕らがサッカーボーイズだった頃 プロサッカー選手のジュニア時代』でご覧ください)

SOUTHAMPTON, ENGLAND - APRIL 28:  Maya Yoshida of Southampton applauds fans after the Premier League match between Southampton and AFC Bournemouth at St Mary's Stadium on April 28, 2018 in Southampton, England.  (Photo by Mike Hewitt/Getty Images)


<プロフィール>
吉田麻也(よしだ まや)

小学校時代:佐古少年団(南稜SC)
中学校時代:名古屋グランパスU15
高校時代:名古屋グランパスU18

1988年8月24日、長崎県生まれ。DF。小学生時代は地元では有名な選手だったが、全国大会の経験はゼロ。しかし、名古屋グランパスU15のセレクションを受けて、見事に合格。その後、名古屋グランパス一筋で、07年にトップチーム昇格を果たした。トップチームに昇格するとともに当時のチーム事情もあって、センターバックへコンバート。08年からは就任したストイコビッチ監督の信頼を受け、センターバックのレギュラーに定着する。チームでの活躍が評価され、同年7月には北京オリンピック代表に選出。2010年1月のアジアカップ最終予選でA代表に初招集。同年オフにオランダエールディヴィジのVVVフェンロへ完全移籍を果たした。現在はプレミアリーグ、サウサンプトンでプレー。


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【商品名】僕らがサッカーボーイズだった頃 プロサッカー選手のジュニア時代
【著者】元川悦子
【発行】株式会社カンゼン
四六判/256ページ
2012年7月23日発売

香川真司、岡崎慎司、清武弘嗣……『プロ』になれた選手には、少年時代に共通点があった!本人と、その家族・指導者・友人に聞いたサッカー人生の“原点”。プロの道を切り拓いた背景には、「家族」の温かい支えと、転機となる「恩師」「仲間」との出会いがあった。

※ご購入はジュニサカオンラインショップまで


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