クラブとともに戦い、走り続ける背番号13――。FC岐阜の永久欠番

2016年09月09日

インタビュー

FC岐阜の背番号13はトップチームからジュニアユースまで全カテゴリーで永久欠番となっている。Jリーグのアカデミーで初めて起きた痛ましい事故から6年たったいまもまだFC岐阜をサポートし続けている両親の想い、そしてともに歩み続ける仲間たちとの絆とは――。

(文・写真●木村元彦 写真提供●桐山周也君のご両親)

『フットボール批評issue11』の原稿に一部加筆

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FC岐阜の“永久欠番”

2016年8月28日。

 この日、岐阜市のサッカーフィールド長良川メドウにはFC岐阜のトップからジュニアユースの選手、さらには現役のみならずOBそして卒業していったスタッフたちまでもが全国各地から続々とやって来た。

 会場受付では来場者に「ありがとう FC GIFU SYUYA」という文字が入ったハート型のおせんべいが配られ、クラブの歴代社長である今西和男、恩田聖敬、宮田博之の3氏も顔を揃えた。JFLを勝ち抜きJリーグ加盟を果たした今西、ALSという病いに冒されながらも中興の祖として観客動員を果たした恩田、そして現在のFC岐阜を牽引する宮田と、まさに刻まれた歴史を見る思いだった。

 参加者はそれぞれに芝生の上でウォーミングアップをしてチームに分かれてボールを蹴り始める。2011年から毎年、この日に行われる会の名称はSyu会(しゅうかい)という。「周也のことを思い,サッカー(蹴球)を楽しむ仲間が集まる会」という意味で名付けられたのである。

 2010年夏、FC岐阜の育成組織であるU-15スティックルバックは石川県に遠征していた。合宿のトレーニングが全て終わった8月28日14時9分。所属選手で当時中学一年生の桐山周也君は母親に電話をかけた。

「帰りのバスは今夜8時くらいに岐阜に着くんだけど、岐阜経済大学前か県庁前のどっちかで降ろしてもらえるんだって。ぼくはどっちで降りた方が迎えに来やすい?」
「それなら経済大学の方が近いからそっちで降りて」

 このとき母はなぜか胸騒ぎがしたという。普段はあまり電話をしない子だったのだ。

「今どこにいるの?」
「今から海に行くんだ」

 そういえば帰途に海に寄るので水着を持って来るようにとの伝達が、クラブから事前にあった。

「あ、そうなの。じゃあ気をつけてね」

いつも謙虚で自分を見失わず、努力を怠らない少年

 周也君は幼い頃から未来を嘱望された選手だった。5歳のときにメッシが出場した豊田国際ユース大会に岐阜県リーグでプレーする父親に連れて行かれてサッカーに目覚めて以来、それまではテレビの戦隊ガオレンジャー一筋だった少年が時間さえあればボールを蹴るようになった。それこそ毎日毎日庭でも家の中でも。

 小学二年生で少年団に入ったときには「ドリブルのときにもうずっと頭が上がっている。あの子は全然モノが違う」と指導者たちからも注目される存在になっていた。FC養老U-8に所属した試合でドリブルでごぼう抜きしてゴールを決める映像が残っている。10歳のときには垂井のFu~Wa FCに移籍し、そこでも抜群の存在感を示した。

 中学進学時には、多くのチームから誘いがあった中でいつかはプロになりたいという思いから自らFC岐阜を選んだ。一歳違うだけで大きな身体差が生じるジュニアユース世代である。しかし、視野の広さと技術の高さが評価されて5月末には中学三年生を主体とするAチームに正ボランチとして抜擢された。数か月前まで小学生だった少年は体格差や体力差をポジショニングの巧みさでカバーして、得点シーンには必ず顔を出した。高いテクニックでコーチをも驚かせたのが、クラブユース東海大会の浜名戦であった。

 早々に退場者を出したスティックルバックが劣勢の中、左サイドからのスローインをペナルティエリアの手前で受けると、一人かわしながら詰めて来る二人目のDFの重心を確認すると、更に鋭利な切り返しで逆を取った。相手のバランスを崩すとそのままゴール隅にシュートを叩き込んだ。チームの最初の得点だった。興奮したコーチからその報告を受けた父が「何か凄かったんだってな」というと少年は「普通」とだけ答えた。

 彼の中では普通だった。いつも謙虚で自分を見失わず、努力を怠らない。コーチからはサッカーだけではなくて学校の事もがんばれといつも言われていたので、練習の行き帰りの車中で宿題に取り組んでいた。それでいて、父が夜遅く帰宅すると淋しい夕食を気遣って食卓に来てつきあってくれる優しさも併せ持った性格だった。当時のFC岐阜の今西和男社長、服部順一GM、アカデミーの河野佑介監督など、選手育成において定評のあるスタッフも含めて誰もがJリーガーになるだろうと思っていた。

最悪の事態

 土曜日(28日)は少年の姉がピアノのレッスンがある日だった。それは午後四時頃、母がその送迎に向かっている最中だった。携帯が鳴った。出ると少年の友だちの父だった。

「海で周也君が行方不明らしいです」
「ええっ」

 驚きは度を越した。息子とはほんの先ほど会話を交わしたばかりである。即座に夫に連絡をした。

「分かった。とにかくすぐ家に帰る!」

 当初はどこの海なのか情報が無かったが、コーチや他の父兄からも続々と連絡が入り、石川県白山市にある徳光パーキングエリアの海水浴場であることが分かった。とにかく二人で現場に向かおうと、自宅から車に乗り込む直前に続報が入った。

「周也君が発見されて病院に収容されました。心肺停止の状態なので心臓蘇生のマッサージをしています」

 病院名を聞き、車を飛ばしながら神様に「助けて下さい」と祈るしかなかった。途中で再び病院からの電話が鳴った。

「蘇生措置を続けていますが…。心臓マッサージの方を、もう止めても良いでしょうか」これ以上続けても身体を痛めるだけだということを言外に伝えられた。絶望という名の感情が襲ってきた。それでも父は気丈に言った。

「僕らが着くまでは続けて下さい」

 一方、FC岐阜の事務所ではアカデミーの統括をしていた河野のところに第一報が入り、そばにいたGMの服部に報告がすぐに上げられた。スタッフも続々と集まって来た。服部は、試合の関係で宇都宮に向かっていた社長の今西に電話をかけて状況を説明すると「すぐに北陸の石川に行って下さい」と告げて自分も車に飛び乗った。

受け入れがたい現実

 父と母は19時過ぎに病院に到着した。最愛の息子は無言で横たわっていた。何が起こっているのか、なぜ起こったのか、分からなかった。とうてい受け入れがたい現実があった。

「すみませんでした」

 と引率のコーチが足元に土下座をして来た。父は悲しみの渦中にいるにもかかわらず周囲の誰もが驚くほどに冷静だった。

「もういい。顔を上げて下さい」

 母は病院に来るだけで心身ともに大きなダメージを受けていたが、必死に平静を保っていた。この場において警官がとんでもないことを聞いてきた。「保険に入っていましたか?」「いえ、学資保険だけです」父は医師にも警察にも毅然と対応し、自ら息子の学校、自分の職場に連絡を取った。

「こういうことでしばらく、休むと思います。ご迷惑をかけますが、よろしくお願いします」

 電話を受けた側がそんな事態でどうしてと逆に驚くほど、落ち着いた声で淡々と事実を伝えていた。

葬儀には700人を超える弔問客が

 翌日、トップチームはアウェイのヴェルディ戦であった。今西社長は試合自体を中止に出来ないかと提言したが、それは出来なかった。服部GMが喪章を付けて戦うことを申し入れ、了承されるとすぐに黒い布を手配してチーム全員で黙とうを捧げた。選手たちは試合後、全員がバスで葬儀の会場に駆けつけた。ペナントにサインをして棺に入れた。服部はそこで身体中で泣いている少年の姉の姿を見て身を切り刻まれる思いだった。高校1年の少女にとって何と残酷な事態であったか。

 葬儀には700人を超える弔問客が集った。母は思った。

「いつの間にこの子は、こんなにもたくさんの人とつながっていたの…。13年間の人生の子にとって700人なんてとても遠い数字のはずなのに…」

 Jリーグの育成組織で初めて起きてしまった痛ましい水難事故。少年の成長を期待して送り出した合宿が今生の別れになってしまった家族の悲しみはいかばかりであろうか。作家ガルシア・マルケスは言った。

「もし君が玄関から出かけていくのを見送るのはこれが最後だとわかっていたら、ハグをして、キスをして、もう一度呼び止めて、ハグとキスをしただろう。もし君の声を聞くのがこれが最後とわかっていたら、ひと言ひと言を漏らさず録音して、幾度となく繰り返し聞き返すだろう」

家族に寄り添い続けた服部GMの献身

 服部GMと河野監督は事故後、毎日のように家族の元に通い、寄り添った。あれから6年目を迎えようとしている。両親はクラブに対して一切の責任追及をせずに今もFC岐阜の応援に通っている。試合だけではない。練習やFC岐阜のイベントにも参加するようになった。

 大切な息子の命を奪ったチーム、息子がサッカーにさえ出逢わなければと受け入れがたい気持ちの矛先をクラブに向けても決しておかしくはない。事実、不条理な事故や事件に遭遇した遺族のほとんどは訴訟を起こしている。

 服部も「これでクラブが無くなってしまってもおかしくないような事件でした。『子どもに夢を』というスローガンで立ち上がったクラブがその尊い命を奪ってしまったのだから。お父さんやお母さんの気持ちを考えると僕自身ももう潰れちゃってもいい、僕に死ねと言えば死ぬし、こんな若い子どもが亡くなっちゃうんだからもう潰れてしまえとさえ思っていました」と述懐する。

 周也君の家族はなぜこの想像を絶する悲しみと、無念さと向き合えたのか。そしてFC岐阜に何を見るのか。

 両親にお話を伺いたいと連絡し岐阜に向かうと、一面識も無いフリーのライターを迎えに駅まで来て下さった。ご自宅にお邪魔し、周也君の霊前にご焼香をして向き合う。

 周囲の誰もが驚くほどに冷静に対応されたという事故後の様子から伺った。

「私たちが幸せでいたら、周也も幸せ」

 「そうですね。確かに今思えばどうしてあんなに冷静に対応が出来たのか。受け入れられない現実なので他のことをすることで感情を抑えていたのでしょうか。周也の遺体をどうやって家に連れてくるか、そんな手続きを淡々としていました。僕は最初から、そして現在もそうですが、責任を追及したところで周也が戻ってくることはないので土下座されたコーチにもすぐに頭を上げて下さいと言ったと思うんです。

 警察に行って、そして岐阜に帰る途中のサービスエリアで社長の今西さんが僕らの車に追い付かれたんです。日本サッカーを支えてきたあんな著名な方なのにそこで凄く丁寧に頭を下げられてずっと家までついてきて下さった。『来る途中、この道をプロを目指したサッカー少年がどんな気持ちで通っていたかと思うと…』と言われて朝まで一緒にいて下さいました。あのときは続々と岐阜のスタッフの人も駆けつけて来てくれて宮城(亮・地域貢献推進部)君も病院でずっと僕らの後ろに立っていてくれました」

 「私は病院で少し体調もおかしくなってのどがカラカラだったんですが、宮城さんがお水をくれたのを覚えています。そして服部さんが葬儀の数日後に『僕が代わりになれば良かった』っておっしゃったんです。凄く真剣に思って下さっているのが分かって気持ちが伝わって来たんです。事故で裁判を起こされた方のニュースも見ますし、そのお気持ちもよく分かります。

 ただ私は周也が何を思っていたのか、今は私たちに何をして欲しいのかと考えたときにやっぱり争うことではなくて周也の仲間が周也が大好きだったサッカーを続けてくれるようにそちらにエネルギーを使った方がいいと思ったんです」

 「どうしてそんな事故を起こしたのに許すのだと言う人もいたのですが、許すとか許さないとかではないんです。このチームが周也のことを忘れていくのだったら、また違ったかもしれませんが、そうではなくチームも私たちの思いを受けてやって下さっている。事故の後にしばらくユースやアカデミーの活動を停止するという話があったんですが、僕はそうではなく、ちゃんと子供たちにはサッカーをやらせてあげて下さいと頼んだんです」

 「私たちが幸せでいたら、周也も幸せ。私たちが悲しんでいたら、周也も悲しい。私たちが幸せでいることを周也も願っているだろうなと思って…」

クラブの責任を追求せずサポートを続ける理由

――お亡くなりになった後はどのようにクラブと接してきたのでしょうか。

 「周也が亡くなった後、僕は正直もうサッカーはできないなという思いも実はあったんです。周也が大好きなサッカーが出来なくなったのに自分だけがプレーをするなんて、という気持ちでした。でもチームメイトとかも励ましてくれて思い直しました。しばらくは、ジュニアユースの活動を含め、FC岐阜の試合を観戦に行くことはありませんでしたが、トップの試合を11/28ホーム最終戦(メドウ)に観にいきました。

 トップの試合を見に行ったのは、当時の岐阜の選手が周也のことをブログに取り上げて下さって、FC岐阜ファミリーの一員として大事にしていただいていることが伝わってきたということがあります。選手やスタッフの皆さんに、親としての心境を伝えたいという思いで(長良川球技)メドウに行きました。ジュニアユースの試合を見に行ったのは、2011年1月に行われたプレミアカップ西濃大会(1年生大会)で、FC岐阜が西濃地区で優勝したゲームだったはずです。

 行こうと思ったのは、僕がその大会の運営に関わるスタッフであったこともありますし、周也がずっとこの1年生大会を楽しみにしていたからです。今西さんの教えが河野さんというすばらしい将を育てたことは、すごいことだと感じていますし、河野さんの指導については、僕自身もサッカーの指導者として学ばせていただく部分がたくさんあります。

 周也にとっても私たち家族にとってもFC岐阜というチームが居場所であり、そこでプロサッカー選手を夢見て、サッカーに打ち込んでいた周也が生きた証を残したいという思いは、とても強くあります」

 「誰かを責めるとか、恨むとかは無いんです。でも周也を亡くした悲しみとか喪失感とか、そういうのは消えているわけではなくて、いくつか地雷があって、何かふと周也と一緒に入ったお店に行ったり、周也が聞いていた歌が聞こえてきたりすると悲しみが襲って来ます。

 だけどやっぱり私たちはこれからも生きていかなくてはいけない。そのエネルギーが服部さんとかスタッフの思い、周也の仲間とかなんです。私たちがFC岐阜を応援に行くことを『何で?』と思っている人もいるかもしれないですが、将来周也が活躍したであろうチームをとにかく存続させないと、応援しないと、なくしては絶対いけないという思いがあって行っているんです」

「苦しみを知らなかったら小さな幸せにも気付くことはできない」

 周也君の一周忌に三歳年上のお姉さんは、こんな文章を集った人たちに向けて書いている。

「今まで沢山泣いて、何回も死にたいって思いました。でも今は、『生きたい』って思えるようになりました。本当に苦しかったけど、今ではあの頃の苦しみは無駄じゃなかったって思います。だって苦しみを知らなかったら小さな幸せにも気付くことはできないから。

 周也を亡くしたことは大きなショックで今でも思い出すけど周也の死から学んだことはたくさんあります。大切な人を亡くして泣いて苦しんでそれでも足掻いて 悲しみや寂しさを受け入れ、乗り越えられたとき 人はきっと強くなれると私は思います。これから生きていく中で誰にも苦難はあるはずです。それは仕方ないこと。

 でも、もし辛くなって涙がこぼれそうになったら空を見上げてみてください。そうしたら、きっと周也が笑ってて、がんばろうって思えるはずです。これからも悲しみが消えることはないでしょうが、家族で支え合いながらまた皆さまの力を借りながら前を向いて生きていこうと思います。今後も変わらず、私たちを支えてくださると嬉しいです」

 服部は志半ばで岐阜を去らなくてはならくなったあとも周也君の家族との交流をずっと続けている。仕事でブラジルに行くときは「周也君も連れて行きたいから」と写真を送ってもらって携帯し、サンパイオに出会ったときは「この子は…」と少年と同じポジションだった元セレソンに紹介している。お姉さんは進学が決まったときや成人式を迎えたときの写真をメールで送り、親しみを込めて「服部ちゃん」と呼んでいる。今では服部がGMを務めるVファーレン長崎の応援にも一家が駆けつけるような強い信頼関係にある。

「周也が俺たちをまた出逢わせてくれている」

 2016年8月28日。Syu会でいつものように父は13番のユニフォームを着てボールを追い、母は周也君そっくりの人形をずっと胸に抱いて各フィールドを回ってみんなの様子を見せている。時計の針が16時を回り、盛り上がった試合もホイッスルが鳴り、閉会の時間となった。不思議なことに一時、夕立ちのような雨が降ったが、最後はからりと晴れ渡った。毎年、参加者はこの会に来ることで、岐阜で共に闘った仲間との再会を果たし、周也君を通じた繋がりが絶えることなく続いているのを強く感じている。

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【2016年8月28日に行われた「Syu会」にはFC岐阜の恩田聖敬前社長も駆け付けた】

「周也が俺たちをまた出逢わせてくれている。それに恥ずかしくないようにしっかりと生きていかないといけない」

 同期のチームメイトたちは今年、高校を卒業して大学、社会人へと進みながら、その思いをいつも忘れない。最後に周也君の人形と共に皆で集合写真を撮った。

「高山の合宿で周也のプレーがすごくコーチにほめられていて、僕はそのプレーを真似しようとしたんだけどできなかったんです」(稲葉進君)

「周也は(U-14の)ボルケーノの大会で自分で取ったPKを蹴れよって譲ってくれました」(加藤鳳君)

 周也君が付けていた背番号「13」は、FC岐阜のトップからジュニアユースまで全てのカテゴリーにおける永久欠番である。事故後、クラブは決して彼のことを忘れないという決意の表れとして発表がなされた。そして、ユースの試合では、いつも周也君の「13」番のユニフォームがテント内に掲げられ、風になびいて踊っている。周也君もみんなと一緒に闘っているのだ。

 背番号13の少年はいつもFC岐阜とともに戦い、走り続けている。

 


 

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