「ごく普通の選手だった」日本代表のエース大迫勇也が”怪物ストライカー”になるまで

2018年06月19日

コラム
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「勇也にボールを渡せば何とかしてくれる」
 
 大迫本人はピッチを駆け回った時間の方がより強く記憶に残っているという。「少年団の練習内容はパスをやって、シュートして、最後にゲームと、非常にシンプルでした。走り込みとか厳しい練習はなくて、みんな仲良く楽しくサッカーをしていました。自分は主にトップ下をやっていましたけど、つねにドリブルしてシュートまで持っていく感じだった。点も取っていましたよ。あの小学生時代があったから、その後もずっとサッカーが好きでいられたのかなと思いますね」と彼は神妙な面持ちで言う。
 
 練習のない日も近所の子どもたちと集まってボールを蹴ったり、リフティング競争などに明け暮れていた勇也少年はグングン成長し、チームの大黒柱に君臨するようになった。永野監督は選手個々の1年間のゴールデータを取っていたが、5・6年時は彼がダントツのトップ。

「勇也にボールを渡せば何とかしてくれる」という絶対的エースとしてチームをけん引していた。こうした活躍が認められ、県トレセンの練習会にも呼ばれるようになったが、万世SSSが強豪チームでなかったため注目度は今一つだったようだ。

「県トレセンに大迫が2人いて、もう1人は鹿児島城西で一緒にプレーした希(藤枝MYFC)だったんですけど、当時は向こうの方が断然有名だった。コーチが出席を取った時も、希だけ名前を呼ばれて、自分が呼ばれなかったこともあった」と本人も苦笑する。周囲の評価はさておき、勇也少年は日々、サッカーに邁進できるだけで十分満足していた。
 
 そんな次男を両親も温かい目で見守っていた。「ウチの両親は試合後の飲み会がメインで、僕らのやっていることには何も口を出さなかった」と大迫も笑っていたが、そういう和気あいあいとした雰囲気があったから、子どもたちものびのびとプレーできたのだろう。

「大迫家のご両親は若手指導者だった自分に全てを任せてくれました。もともと野球をやっていたお父さんからは『好きにやってくれ』と言われましたし、バレーボールの選手だったお母さんも黙ってサポートに 徹してくれていた。家に書類を届けに行けば、『ウチに上がって、一杯飲んでいきなさい』と言われるほど親切にされました。保護者とのコミュニケーションが密だったので、自分は本当にやりやすかった」と永野監督は話す。

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