南野拓実は“生粋の負けず嫌い”だった。「なんで俺を交代さすんや。もっとやらせて」

2019年12月13日

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名実ともに欧州屈指の名門・リヴァプールへの移籍が噂される南野拓実。欧州で活躍する若き日本人の中でも異彩を放つ南野はどんな少年時代を送っていたのだろうか。

取材・文●元川悦子 写真●Getty Images

『僕らがサッカーボーイズだった頃3』より一部抜粋
※この記事は2018年10月17日に掲載した記事を加筆・再編集したものです。


南野拓実 minamino takumi

物心つく前からボールを蹴っていた

 関西国際空港に程近い大阪府泉佐野市。大阪市内のベッドタウンとして名を馳せるこの町で南野拓実は生を受けた。その日は奇しくも阪神大震災の起きる前日の1995年1月16日。両親も慌ただしい状況下での子育てとなったに違いない。

「僕の名前は『自分で開拓して実るって意味だ』と小さい頃、親に聞かされました。名前負けせえへんようにしないといかんと思いましたね」と南野は命名の由来を打ち明けるとともに、生きる決意を新たにしたという。

 南野家には三つ上に兄がいて、幼少期の拓実少年は兄の後をついて回る、活発な子どもだった。

「兄貴とはよくケンカしていました。兄貴と友達が遊んでいるところに僕がついて行こうとすると、『来るなよ』と言われて、それに反発する感じですね。でも結局はついていくことになっていました(笑)。サッカーもそんな流れで始めたのかな。兄貴たちと一緒に、物心つく前からボールを蹴っていました」

 通っていた熊取町のフレンド幼稚園で本格的にサッカーを始め、同幼稚園を母体としたゼッセル熊取に入るのは、ごく自然の成り行きだった。杉山代表はチームに成り立ちを次のように説明する。

「ゼッセルの前身のチームは1980年代からありましたが、活動が小3までで、約20年間は我々が任意で小4以上を指導する形をとってきました。2002年にNPO法人化して、ジュニアとジュニアユースを持つクラブとしてようやく組織的な運営ができるようになりましたね。泉南地区はクラブが少なく、大阪でも少しレベルが低かったので、少年たちの一つの受け皿になったと思います」

南野拓実 minamino takumi

「なんで俺を交代さすんや。もっとやらせて」

 ちょうどクラブの体制が確立された頃、泉佐野市立長坂小学校に入った拓実少年は、いい環境の中で週3回の練習を楽しむことができた。ゼッセルは個人にフォーカスしたメニュー中心。ドリブルやフェイント、シュートなどに磨きをかけた。週末の練習試合では、全員を入れ替えながら戦うルールになっていたため、途中で下げられることもあったが、「なんで俺を交代さすんや。もっとやらせて。俺、サッカー好きやねん」とコーチ陣に注文をつけることもしばしばあるほど、意思の強さは並ではなかった。

「ゼッセルの頃はホンマ、自由にやらせてもらいました。兄貴の代がメッチャ強くて、フジパンカップみたいな大きい大会に出て戦っているのを見て、『兄貴たちの代を超えたい』と意欲が湧いてきた。3年生くらいのときには、サッカー選手になる夢を具体的に思い描いていました」(南野)

 そもそも拓実少年がプロという壮大な夢を持つきっかけになったのが、ワールドカップの映像を目にしたことだ。冒頭の杉山代表の話にもあるように、わずか3歳で世界のスーパースターの妙技に目を奪われ、サッカーに魅了された彼は、その後もビデオを見まくり、華麗なプレーをしたいと練習で一生懸命、スキルを磨いた。

「1998年フランス大会のアイドルは元ブラジル代表のロナウド。準決勝のオランダ戦で決めたゴールはよく覚えていますね。ワンダーボーイのマイケル・オーウェン(元イングラウンド代表)もすごかった。2002年はもう『日本代表でやりたい』って気持ちになっていました。ベルギー戦の鈴木(隆行)選手や稲本(潤一=コンサドーレ札幌)選手のゴール、チュニジア戦の森島(寛晃)さんのゴールは家族みんなで見ました」

南野 室屋
【幼馴染である室屋成(左)と南野拓実(右)。】

とにかく負けず嫌い

 世界の舞台に強い憧れを抱いた拓実少年は、早い段階から高いレベルを追い求めた。ゼッセルのチームメートには、のちに2011年U-17ワールドカップ(メキシコ)、そして2016年1月のリオデジャネイロ五輪アジア最終予選(AFC U-23 選手権=カタール)でともに戦うことになる室屋成(FC東京)がいた。2人の出会いはまさに偶然以外の何物でもなかった。

「拓実と初めて会ったのは幼稚園の頃。兄貴同士が同い年で、ゼッセルで一緒に練習している傍らで、親に連れていかれた僕ら2人もよくボールを蹴ったり、鬼ごっこしたりしていました。拓実の家で遊ぶこともあったんですが、二言目にはあいつが『サッカーしよう』と言い出して、家の裏にあった中学校グラウンドへ出かけることになり、よく練習させられましたね。ホントにとことんサッカーが好きな子やったと思います(笑)。

 小学校の頃の拓実は、ボールを持ったら絶対に離さなかった。ある試合では、キックオフの笛が鳴った瞬間から一気にドリブルで仕掛けて相手チームの選手を全員抜きしてゴールすることもありました。そうやってガンガン突っ込んでいく拓実を見ながら『すごいなあ』と感心していた覚えがありますね。点を取るだけじゃなくて、『自分がゴールを守ってやる』という意識も強かった。

 地元の少年サッカー大会なんかでPK戦になると、拓実は『全部俺が止める』といってGKに入ってました。そういう行動パターンを見ても、どれだけ負けず嫌いなんやと思いますよね(苦笑)。それが南野拓実という人間なんです」と室屋は幼馴染みの天才サッカー少年の一挙手一投足を目の当たりにしながら、いつも刺激を受けていたという。

 南野自身にとっても親友かつライバルの室屋の存在は大きかった。優れた選手が身近にいたからこそ、彼のサッカーへの意欲や向上心がより掻き立てられたのは間違いない。

「僕の中で成に対するライバル意識はすごくありました。小学生の時は自分がFW、成がトップ下という形でコンビを組んでいて、成が出したボールを俺が決めるみたいなコンビも結構あったかな。練習が終わった後もよく2人でボールを蹴りましたし、お互いに感覚的な部分でわかり合っていたところがありましたね」

忘れられない全少でのミス

 高学年のときに2人を教えた比嘉陽一コーチもこう語る。

「拓実はホンマに負けず嫌いで、自分がボールを奪われたら追いかけて取り返し、そのまま点を取ってしまうような子。ゴール前の一瞬の動きとひらめきは生粋のストライカーそのものでしたね。成のほうは運動量豊富で気の利く選手だったから、トップ下やボランチに彼がいることで、拓実もやりやすかったと思いますね」貪欲に上を目指す彼らは、個人技を磨くために、小学3年生からクーバーにも足を運んだ。拓実少年は兄についていったのが最初だったが、岸和田校の開校と同時に週1ペースで本格的に通始めた。

 クーバーでは1対1やフェイントを練習する際、回数を競ったり、タイムトライアルを盛り込むなど、競争の要素をふんだんに盛り込んでいる。負けん気の強い拓実少年にこの指導法はうってつけで、すべてのスキルが目に見えて上達していった。加えて、彼は覚えたテクニックを実戦で試す勇気と大胆さも併せ持っていた。こうした積極性も同年代では群を抜いていたようだ。

 現在の南野の看板プレーの一つに「シザーズ(またぎフェイント)」がある。それもクーバーで身につけたといっても過言ではない。

「当時の僕はロナウドになりきって、シザーズやダブルシザーズをよくやっていましたね。クーバーでは足元の技術がメッチャついた。自分の行きたいスクールにいっぱい通わせてくれた親に感謝したいです。毎日、送り迎えをしてくれたし、お金もかかっただろうけど、そういう大変さを僕に言うことは全くなかった。ホンマ、自分の力だけでサッカーできたんじゃないなと痛感させられます」

 これだけの努力をしたものの、ゼッセルでは全国大会に行くことはできなかった。6年生の全日本少年サッカー大会大阪府予選では、強豪のアバンティ関西と対戦し、1-2で敗れてしまう。拓実少年は自らが犯したミスを忘れられないという。

「僕の足に当たってオウンゴールしてしまったんです。その後0-2になって、自分の得点で1点を返したけど、最終的に負けた。キャプテンやったし、自分がチームを勝たせられなかったことがメッチャ悔しくて泣きました」

 より高いレベルを渇望する拓実少年は、卒業後は兄が通っていたセレッソ大阪U-15へ進むことを決断。スカウトからも誘いを受けて、迷うことなくプロ予備軍の門を叩くことにした。


※ジュニアユース以降のエピソードは『僕らがサッカーボーイズだった頃3』をご覧ください!


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