「ごく普通の選手だった」日本代表のエース大迫勇也が”怪物ストライカー”になるまで
2018年06月19日
育成/環境日本代表は19日(火)にロシアW杯グループリーグ初戦でコロンビア代表と対戦し、2-1で勝利を飾りました。FWで先発出場した大迫勇也選手は(万世SSS/鹿児島育英館中学校/鹿児島城西高校 )後半にCKから逆転ゴールをマーク。ハメス・ロドリゲスのシュートをスライディングでブロックするなど攻守において大活躍をしました。そんな大迫選手はいかにして”半端ないストライカー”になったのか、その軌跡を振り返ります。
文●元川悦子 写真●GettyImages
全国大会とは無縁だった
フランツ・ベッケンバウアー監督率いる西ドイツ代表が、ディエゴ・マラドーナ擁するアルゼンチンを下して3度目の世界王者に輝いた90年イタリアワールドカップ。この大会が開幕する約1ヵ月前、鹿児島県南西 部の加世田市(現南さつま市)に住む大迫家に待望の次男が誕生した。「勇也」と名付けられた男の子は2つ上の兄、3つ下の妹の 三人兄弟の中、スクスク育った。「僕の地元は山しかない田舎。家からコンビニまで歩いて15分もかかるくらいですから」と本人が説明するように、自然あふれる長閑な土地で、彼は元気いっぱいの幼少期を過ごした。
ボールを蹴るようになったのは3歳の頃。通っていた幼稚園で幼児教育に力を入れている太陽スポーツクラブが巡回指導していたため、勇也少年もサッカーに関心を持つようになったのだ。万世小学校入学後も1・2年の間は太陽スポーツクラブのサッカー教室で練習していたようだ。
万世サッカースポーツ少年団(SSS)に入ったのは小学校3年生に上がった99年。同少年団は総勢30人程度の小規模なチームで、活動は月・水・金曜日の週3回。3・4年、5・6年という2つのカテゴリーで練習を行っていた。当時の鹿児島県は、遠藤保仁(G大阪)を輩出した桜島地区を含む鹿児島市内、あるいは霧島市がサッカーどころで、加世田市は県大会に出場できれば御の字だった。「県大会1回戦で勝てれば、もう優勝したかのように喜んでいましたからね」と大迫も笑みを浮かべていた。しかし、20年が経過した今は、南さつま市のチームが全国大会に出場するほど急激なレベルアップを遂げているという。
この頃、勇也少年たちを指導していたのが、永野高茂監督。「私は高校を出て地元企業で働きながら社 会人サッカーをしていたんですが、その先輩の紹介でJリーグ開幕の93年から万世SSSの指導をするようになりました。勇也の兄弟は3人とも少年団でプレーしていて、勇也は特に負けず嫌いでした。当時は自分 もまだ20代で体も動いたんで、よく子どもたちと一緒にボールを蹴りましたが、あの子は私に向かって果敢に1対1を仕掛けてきました。OBの中学生や高校生が来た時もそうでした。サッカーに対しての貪欲さは本当に凄かったですね」と恩師は述懐する。
永野監督はボールを止める・蹴る技術の基本を徹底させ、サッカーの楽しさを教える一方で、自分で考えてアクションを起こすことの重要性を子どもたちに伝えた。うまい人の真似をさせたり、サッカーノートを書かせたりと、さまざまな角度から成長を促したようだ。「少年団の試合後には必ずサッカーノート1ページ分の反省をさせていましたし、日本代表戦の時は練習を早く切り上げてレポートを書かせたこともありました。勇也は覚えていないかもしれないけど、真面目に書いてくれましたよ」と恩師は懐かしそうに語る。
「勇也にボールを渡せば何とかしてくれる」
大迫本人はピッチを駆け回った時間の方がより強く記憶に残っているという。「少年団の練習内容はパスをやって、シュートして、最後にゲームと、非常にシンプルでした。走り込みとか厳しい練習はなくて、みんな仲良く楽しくサッカーをしていました。自分は主にトップ下をやっていましたけど、つねにドリブルしてシュートまで持っていく感じだった。点も取っていましたよ。あの小学生時代があったから、その後もずっとサッカーが好きでいられたのかなと思いますね」と彼は神妙な面持ちで言う。
練習のない日も近所の子どもたちと集まってボールを蹴ったり、リフティング競争などに明け暮れていた勇也少年はグングン成長し、チームの大黒柱に君臨するようになった。永野監督は選手個々の1年間のゴールデータを取っていたが、5・6年時は彼がダントツのトップ。
「勇也にボールを渡せば何とかしてくれる」という絶対的エースとしてチームをけん引していた。こうした活躍が認められ、県トレセンの練習会にも呼ばれるようになったが、万世SSSが強豪チームでなかったため注目度は今一つだったようだ。
「県トレセンに大迫が2人いて、もう1人は鹿児島城西で一緒にプレーした希(藤枝MYFC)だったんですけど、当時は向こうの方が断然有名だった。コーチが出席を取った時も、希だけ名前を呼ばれて、自分が呼ばれなかったこともあった」と本人も苦笑する。周囲の評価はさておき、勇也少年は日々、サッカーに邁進できるだけで十分満足していた。
そんな次男を両親も温かい目で見守っていた。「ウチの両親は試合後の飲み会がメインで、僕らのやっていることには何も口を出さなかった」と大迫も笑っていたが、そういう和気あいあいとした雰囲気があったから、子どもたちものびのびとプレーできたのだろう。
「大迫家のご両親は若手指導者だった自分に全てを任せてくれました。もともと野球をやっていたお父さんからは『好きにやってくれ』と言われましたし、バレーボールの選手だったお母さんも黙ってサポートに 徹してくれていた。家に書類を届けに行けば、『ウチに上がって、一杯飲んでいきなさい』と言われるほど親切にされました。保護者とのコミュニケーションが密だったので、自分は本当にやりやすかった」と永野監督は話す。
意外な進路選択
ごく普通の少年団でプレーしていた勇也少年が日置市の鹿児島育英館中学校に進むというのは、少し意外な進路に映る。
きっかけは中学校から永野監督宛てに届いたセレクションの案内状だった。「勇也たちの学年から育英館中が体育コースを作って強化することになり、セレクションの案内を県内の少年団やクラブチームに送っていたようなんです。ウチにも届いたので親御さんを集めて説明したら、勇也が受けると申し出てきた。お母さんから『どうする』と聞かれて、やる気になったんでしょう。でも正直、受かるとは考えていませんでした。当時の勇也は万世SSSでは際立った存在だったけど、そういう選手はどこのチームにもいましたからね。ところが結果は合格。本当にビックリしました」と永野監督は言う。
育英館中の提携校・鹿児島城西の監督で、セレクションで子どもたちを評価する側にいた小久保監督は、勇也少年の一挙手一投足を目の当たりにし、鮮烈な印象を抱いたという。「ゲームで点を取ったんですが、上手な子だなとすぐに分かりました。万世SSSは有名なチームではなかったので、彼のことは知らなかったんですが、体の使い方もうまく、相手を背負ってキープするような仕事にも長けていた。ウチには来てくれないだろうと思いましたけど、入学を決断してくれたので、本当に嬉しかったですね」(小久保監督)
日本中が自国開催のワールドカップに向けて盛り上がっていた2002年春、勇也少年は同中学校の扉を叩いた。この選択が彼のサッカー人生を大きく変えたのは間違いない。
加世田市の実家から育英館中学校までは 片道1時間。鉄道は通っていないため、1時間に1本ペースで走っているバスに乗って通う生活が始まった。体育コースは月・水・金曜日の授業が午前のみで午後からサッカーの練習ができる代わりに、火・木曜 日は7時間授業という特殊なカリキュラムになっている。土日ももちろん練習や試合。サッカー部員は週5回みっちりとトレーニングを積める環境が用意されていた。大迫の代は体育コース1期生ということで1学年15人のみ。学年が上がるにつれて部員数は増えたものの、1年時は練習の負荷が高く、ハードだったはずだ。
「能力も頭抜けているわけではなかった」
指導に当たったのは、福岡大学を出たばかりの新任教師だった山平監督。22歳の青年指揮官は経験こそなかったが、気力と体力はあり余っている。サッカーへの情熱を前面に押し出して中学生たちを教えた。
「山平先生の指導は厳しかったですね。毎日怒られながら鍛えられた記憶がありますね」と大迫は述懐する。万世SSSが楽しいサッカーをモットーにしていた分、カルチャーショックが大きかったようだが、必死に食らいついていくしかない。
山平監督も常日頃からそう仕向けていた。「1年の頃の勇也はそこまで特別な選手という印象はありませんでした。体も160㎝くらいで小さかったですし、能力も頭抜けているわけではなかった。中学からFWになり、2年から3年に上がる頃から身長が一気に伸び始めて、プレー面でも急激なレベルアップを遂げました。もともと相手を背負うプレーは得意でしたけど、体の成長とともに前を向いて勝負することが自然とできるようになった。それが一番大きな変化でした。
勇也は自分のやりたいことができるようになると物足りなさを覚え、練習がつまらなく感じる傾向があった。そうさせないために、全体練習後に『1対1をやろう』と私から誘って、闘争心を煽るようにしていま した。『もっとこい』『かかってこい』というこちらの言葉に反応して、勇也はガツガツと向かってくる。負けじ魂をむき出しにする彼と勝負するのは楽しかったですね」と恩師は懐かしそうに振り返る。
「山平先生は現役時代、FWだったんで、シュートはよく教えてもらいました。インサイドのシュートもそうだし、コースを狙って打つとか、トラップの仕方とか、得点を取るためのディテールを学びました」と 大迫も話したが、青年監督の熱い指導によって刺激を受けた部分は少なくなかった。
勇也は「生活態度に問題がありました」
1年から大会に出られる環境も、つねに刺激を求める大迫にはプラスに働いた。1年の時は全国中学校大会や高円宮杯の県大会1回戦負けを余儀なくされ、2年の時も県内のライバル・神村学園に5、6点の大差をつけられて苦杯を喫していた。それでも敗戦の中、一矢報いるゴールを取っていたのは、必ずと言っていいほど大迫だった。その勝負強さは山平監督も高く評価していた点だ。
その反面、サッカーに力を入れすぎるあまり生活態度がいい加減になることも皆無ではなかった。忘れ物を繰り返したり、授業中に先生の話を聞いていなかったりすると、サッカー部の練習参加見送りという厳罰が下ることもあったようだ。
「3年生のゴールデンウイークに鹿児島県中学校サッカー選手権大会という100チーム以上が参加する大きなトーナメント戦があったんですが、勇也を1~3回戦に出さなかったんです。生活態度に少し問題がありましたからね。その様子を現場で見ていた勇也のおじいちゃんが『先生に言おうか』と声をかけたそうですが、本人はじっと我慢していたと後から聞きました。勇也の家族はおじいさん、おばあさんが皆勤賞と言っていいほど熱心に試合を見に来ていましたし、ご両親も仕事の都合をつけてできる限り足を運んでいたから、家族の前で恥ずかしいところは見せられないという思いも強かったんでしょう。結局、勇也が4回戦以降に大活躍し、チームを準優勝へと導きましたね」(山平監督)。
逆境に追い込まれるほど、負けじ魂と向上心を募らせるのは生粋の性格なのだろう。その長所を山平監督にうまく伸ばしてもらった大迫は3年になると絶対的エースに君臨。育英館中は全中県予選で強豪・桜島中を3-2で撃破して優勝し、九州大会まで勝ち上がった。こうした働きが認められ、この冬には城福浩監督(サンフレッチェ広島監督)率いるU-15日本代表候補に初招集。教え子1期生から日の丸を背負う選手が出たことを山平監督 も嬉しく感じたという。その頃には大迫自身もプロを強く意識するようになり、提携校の鹿児島城西高校に進学。さらなる高みを目指した。
高校2年の時に大きな挫折に直面
2005年に入学した頃、鹿児島城西は 鹿児島実業、神村学園らの牙城を崩すほどの急成長を遂げていた。小学校時代から県内では有名だった大迫希らも加わり、大迫はハイレベルの仲間とともに練習に勤しんだ。すでに身長も180㎝まで達しており、体の線はまだ細かったものの、小久保監督は1年の高校総体県予選から早速、起用し始めた。
「勇也は高校上がる直前の春休みの宮崎合宿に参加した時も、関西の大学との練習試合にラスト15分だけ出て1ゴール1アシストという結果を残した。それだけの選手ですから、入学早々、公式戦に出すことに迷いはありませんでした。試合の山場になると『そろそろ出てくるぞ』と相手の監督も予想していたと思います。実際にピッチに送り出すと、瞬く間に2得点して15分間でお役御免になるといった『スーパージョーカー』的な働きをしてくれた。U-16代表に相応しいレベルの選手でした」と指揮官も太鼓判を押す。「小久保先生は優しかった」と大迫も話していたが、山平監督とはまた一味違ったアプローチが、高校生の彼には合っていたようだ。
理想的な環境の下、順調に飛躍していった大迫だが、高校2年の時に大きな挫折に直面する。2007年U-17ワールドカップ(韓国)直前になって最終メンバー落選という憂き目に遭ったのだ。当時のチームは、 2014年ブラジルワールドカップに挑んだ日本代表でポジションを争った柿谷曜一朗(セレッソ大阪)を筆頭に、齋藤学(川崎フロンターレ)、大塚翔平(川崎フロンターレ)らJユース所属選手が大勢を占めていた。大迫は彼らの壁に阻まれる結果になった。
「あまり気にするな」
小久保監督は大迫に優しく声をかけた。「U-17代表からA代表になった選手は少ない。最終的にA代表になることが大事なんだ。ここからどうなるかが肝心だよ」
この言葉を聞いて、大迫は自分が何をすべきか真剣に考えたに違いない。2年の高校サッカー選手権までは全て自分1人でやろうとしてエゴをむき出しにする傾向が強かったが、徐々に仲間を使って自分も生かす術を考えるようになった。小久保監督に「周りを使え」と口を酸っぱくして言われたことも大きかったのだろうが、ゴールもアシストもできるマルチな能力を備えたFWへと変貌を遂げていったのだ。
“半端ないストライカー”に
その集大成が、2009年正月の高校選手権での1大会10ゴールという新記録達成だ。初戦から4試合連続2ゴールという史上初の快挙を果たし、平山相太(元ベガルタ仙台)が国見高校時代に達成した大会9ゴールを突破。アシストも10を記録し、「お膳立てもゴールもできるスーパーFW」という印象を色濃く残したのだ。鹿児島城西は決勝で広島皆実に2-3で敗れ、惜しくも全国優勝は手にできなかったが、この大活躍が大迫勇也の輝ける未来を決定づけたと言っても過言ではないだろう。
そして選手権直後の2009年春には鹿島入り。プロの一歩を力強く踏み出した。「サッカーを好きでいられたからプロになれた。それが一番ですね。『親に言われたからサッカーをしてます』みたいな姿勢はやっぱりダメ。人に押し付けられていたら僕はサッカーをしていなかった。自分からやろうという姿勢が大事だと思います」と大迫はプロサッカー選手になれた要因をこう分析した。
自分からアクションを起こす姿勢はその後も変わらず、鹿島2年目にはエースFWが背負う9番を手にし、チームの有力な得点源に君臨した。2012年ロンドン五輪はU-17ワールドカップと同様、最後の最後でメンバー落ちの屈辱を味わったが、その挫折も力に変えられるのが彼の強み。2013年夏の東アジアカップ(韓国)で日本代表デビューしてからの飛躍は目覚ましく、2014年ブラジルワールドカップメンバーを射止め、ドイツでもブンデスリーガ2部・1860ミュンヘンから1部の名門・ケルンへステップアップした。16-17シーズンはドイツキャリアハイのシーズン7得点を達成。
本人は「次のシーズンは2ケタ得点」と目標を掲げている。「ドイツでゴールを量産して、次のロシアワールドカップでは大黒柱として活躍してほしい」と山平監督も小久保監督も口を揃えている。永野監督も「ケガをせず、できるだけ長く選手として活躍し続けてほしい」とエールを送る。そんな恩師たちの願いを現実にすべく、日本屈指のストライカーは未知なる領域まで上り詰めていく。
プロフィール
大迫勇也(おおさこ ゆうや)
少年時代:万世サッカースポーツ少年団
中学時代:鹿児島育英館中学校
高校時代: 鹿児島城西高校
1990年5月18日生まれ、鹿児島県出身。小学生時代は万世SSSでプレー。中学からは鹿児島城西高校の提携校である鹿児島育英館中学校へ進学し、高校時代は鹿児島城西高校でストライカーとして活躍。第87回全国高等学校サッカー選手権大会では、10ゴール10アシストの成績を残しチームの準優勝にも大きく貢献した。高校卒業後は、鹿島アントラーズに加入。5シーズンプレーし、139試合40ゴールの活躍をおさめ、2014年にドイツへ移籍。16-17シーズンはシーズン7得点を達成し、UEFAヨーロッパリーグの出場権獲得に貢献した。正確な技術と冷静な判断から多くのゴールに絡む日本屈指のストライカー。5月にケルンからブレーメンへの移籍が決定した。
【商品名】僕らがサッカーボーイズだった頃4 夢への挑戦
【著者】元川悦子
【発行】株式会社カンゼン
四六判/232ページ
価格:1,728円(税込)
四六判/232ページ
2018年5月21日発売
『ジュニアサッカーを応援しよう! 』人気連載企画の第4弾!!
日本代表や海外、Jリーグで活躍するプロサッカー選手たちがどんな少年時代を過ごしたのか。
本人たちへのインタビューだけではなく、彼らをささえた「家族」や「恩師」「仲間」の証言をもとに描いた、プロへ、そして日本代表へと上り詰めた軌跡の成長ストーリー。
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