中学3年生で越境して得たものとは? 松本山雅FC・田中隼磨選手の中学時代

2016年05月13日

コラム

長野県松本市出身で松本山雅FCでプレーする田中隼磨選手は、中学3年生で横浜フリューゲルスユース(当時)に越境、その後、横浜F・マリノスで昇格してプロ選手となりました。プロキャリア17年目を迎える田中選手の中学時代とはどのようなものだったのでしょうか。

(著●田中隼磨 構成●大枝令 写真●田中伸弥)

『闘走心 一戦一勝一瞬に身を捧げる覚悟』より一部抜粋



松本山雅FCをけん引する田中隼磨選手。写真:Shinya Tanaka

15歳で越境して挑んだ

 それは夏の暑い日のことだった。
 一人で特急あずさの切符を買って、JR松本駅からまず八王子駅へ。そこから横浜線に乗り換えて、40分ほどかけて寮がある最寄りの鴨居駅に着いた。トップ選手のような厚遇を受けられるわけじゃないから、駅には誰が迎えに来てくれているわけでもない。文字通りに右も左もわからない土地で、目的地の寮まで一人の力でたどり着かなければいけなかった。

 あらかじめ地図を買っておいて正解だった。建物や店を目印にして、20分以上も歩いただろうか。しかも駅からは本当に急な上り坂ばかりの道。入寮するための大荷物を抱えながら、汗だくになってようやく寮までたどり着いた。今まで住んでいた松本の景色とは全く違い、畑も田んぼもなければ山も見えない、家ばかりが立ち並んでいる道を歩いて。

 苦労したけれども、こうやって念願だった新天地での生活が始まった。
 最初は都会での生活に馴染むのにも大変だった。知らない土地で、一人電車に乗るのはほとんど初めてと言っていいくらいの経験だったし、生活で何か困ったときに助けてくれる家族も友達もいない。地方都市の松本から大都会の横浜に出てきたから、まず人の多さに圧倒もされた。故郷の松本では到底考えられないような人波の中で、中学3年生の自分はポツンと独りだった。

 寮は基本的にトップチームの選手のためのものだから、中学3年生の時点で入っている同学年の選手もいない。食事は寮でしっかり管理してくれていたけれど、たまに土、日曜日が休みになることがあって、そのときは本当に困った。寮母さんとかに「この辺にこういうお店があるよ」などと教えてもらったはいいものの、言われた「この辺」が果たして「どの辺」なのかがまずわからない。仕方がないから自転車をやみくもに走らせて、行き当たりばったりでたどり着いた店で食事をしたりしていた。

 部屋にはベッドやテレビなどがあったけれども、それ以外の家具や身の回りの品は自分でそろえなければいけなかった。ボディーソープやシャンプーがなくなったらどこに買いに行けばいいのか、歯ブラシは、洗剤は――。今までそれらの全ては、当たり前のように親が用意してくれていた。今のようにスマートフォンですぐに検索できるわけじゃない時代。それもやっぱり、おそるおそる通行人に声を掛けて場所を聞いてみたりしながら乗り切っていた。

 こうした経験を何回も何回も繰り返して、本当に親のありがたみが痛いほどわかった。別に見ず知らずの土地が怖かったわけでも、嫌だったわけでもない。ましてや自分で望んでようやく勝ち取ったプロサッカー選手への第一歩であるはずだ。それなのに親元を離れたのがやっぱり寂しくて、特に最初のうちはさんざんホームシックになった。時々電話して声を聞いたときは心配を掛けたくないから気丈に振る舞っていたけれど、切った後には自然と涙がこぼれていた。

 フリューゲルスのチームメイトたちからも当然「田舎から出てきたヤツ」だと下に見られて、最初のうちはなかなか輪に入ることができなかった。中学3年生の時点からユースの練習に参加しているのは自分だけ。プライドも技術も高くて全てにおいて差を見せつけられていた。「自分は他人より何倍も何十倍も何百倍も努力しなければいけない」。やっぱりそう感じた。もっと言えば、彼らはみんな都会っ子。松本から出てきた自分と共通の話題はないし、話すきっかけもなかなかつかめない。

 だからこそサッカーで見返さなければいけなかった。小学校6年生でサッカーを始め、マリノス(注 小・中学校時代に出場した全国大会で対戦)にやられてからずっと願っていた新たな環境を自分の力でようやく勝ち取ったのに、こんなところで押しつぶされてはいけない。

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