鹿島アントラーズ10番・柴崎岳のルーツ。「プラチナ世代」の天才はどのような環境で、どのように成長したのか?

2016年12月19日

コラム

青森山田の飛び級システム


第88回高校サッカー選手権大会 写真:Shinya Tanaka

――「負けず嫌い」なところが伺えるエピソードですが、常日頃から「勝負事へのこだわり」をすでに備えていたということでしょうか?

黒田 どんなに短いミニゲームやトレーニングでも妥協する事が大嫌いな性格でしたね。先輩、後輩に関係なく、少しでも手を抜いている選手には、かなり激しく檄をとばして指摘していましたから。彼が中学2年の時に、負けた大会の表彰式に出ないで、近くの階段の下に隠れて涙を流していたことがありました。それと同じように中学3年の時に決勝戦で敗れた時も、その場から居なくなろうとしていたので、私は彼を呼び止めて表彰式に戻した一幕がありました。彼はそれだけ、人前で泣き顔を見せたくないし、悔しい時に決して他人には姿を見せようとしない、隠れて泣くくらいの「負けず嫌いさ」をもっていました。

――当時、チームメイトとはどのような関係性を育みながら、彼は成長していったのだと感じますか。

黒田 私が見ている限りでは、彼自身は幅広く付き合いを持つわけではなくて、信頼できる選手と深く付き合っていくタイプです。友達に媚びを売ったり、気を遣ったりするタイプでもありませんし、どちらかといえば監督やコーチ、スタッフといった指導者や大人と話すことを好んでいたようで、自分が向上する為の知識や教養を、大人から盗み取ろうとして会話を楽しんでいました。

 彼のコミュニケーションする姿を見ると、常に探求しながら学ぶ事を求めていたのかなと思います。群がることが嫌いで、自分が正しいと思った事を信じて自分自身で行動することのできるタイプでした。

――黒田監督はそんな彼に対して、どのような指導や接し方、アプローチを心がけたのですか?

黒田 彼には、自分で克服する為の課題や、ストレスを受けやすいような環境(彼よりレベルの高い選手とプレーする環境)をできる限り与えていきました。中学3年の時には、高校3年の選手と一緒にトレーニングをさせて、試合に出場させる事によってスピード感や精度を高めるようにしていました。

 彼が中学2年の時に「クラブ申請」をして、中学サッカー部を高校サッカー部の下部組織として登録しました。それによってクラブ内のチーム間において、上の年代の大会に下の年代のチームに所属する選手を移籍手続きなしに出場させることができるので、中学3年でも高校生の試合にも出られるようになりました。そして高校の試合に出場させ、中学3年になると全日本ユースサッカー(U‐18)選手権大会、当時の東北プリンスリーグにも全試合に出場しました。

 彼がプロになるために、日本代表選手になるために、私もサッカークラブそのものの環境を整えました。それが彼にとっても、若い年代から活躍する場所を得られた事はすごく大きかったと思いますしね。指導者としては選手に何から何まで、教えるのではなくて、成長する為の最適な環境や方法を常に与えることが大事です。

 接し方については、大人と話をする事が好きな彼とは、自然にサッカーの事や色々な話をしてきました。遠征のバスで移動しているときに、彼はペンとノートを持って私の横に来て、試合のビデオを観ながら、自分のプレーの解説をお願いしたり、反省点を聞いてきたりしました。同世代のチームメイトが寝ている時でも、寝ないで熱心に試合のビデオを観ていました。

 そういう向上心が、今の彼を確立させた一つの要因でもありますし、彼は大人の意見を真剣に聞いて、理解しようとしていたんです。例えば、紅白戦などでも、セカンドチームの練習試合であっても、ハーフタイム中の監督やコーチの指示をトップチームだった彼が耳を澄まして聞いていました。とにかく何でも吸収してやろう、というのが彼の特徴だったように思います。

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