「お前なんか絶対に一流になられへん」。”努力家”本田圭佑の原点【前編】

2018年06月16日

コラム
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MILAN, ITALY - JANUARY 06:  Keisuke Honda of AC Milan gestures during the Serie A match between AC Milan and Bologna FC at Stadio Giuseppe Meazza on January 6, 2016 in Milan, Italy.  (Photo by Marco Luzzani/Getty Images)

小学生の頃から負けず嫌いだった圭佑少年

 摂津FCに通い始めた小学2年生のときに両親が離婚し、母不在の家庭で育った本田は、祖父、父、兄いいう強い男家族から逞しさを学び、ハングリー精神を研ぎ澄ませていった。そして高学年になると「サッカーで一番になろう」と真剣に考え始める。プロになり、海外でプレーする自分を思い描くようになったのだ。小学校の卒業文集に「将来はイタリアのクラブで10番をつけてプレーする」と書いたのは、彼にとっては夢ではなく実現可能な目標であったのだろう。その理想をしばしば兄と語り合うことで、自分自身を鼓舞していたのである。
 
 そんな圭佑少年だったが、摂津FCは摂津大会を勝ち抜いて三島大会に出るのが精いっぱい。全日本少年サッカー大会出場を考えられるレベルではなかった。小学校卒業後は田中監督が指導する摂津二中へ行くのが順当なコースだと見られた。
 
 ところが、田中監督は弘幸さんが卒業するのと同時に摂津五中へ異動し、教頭に昇格する話が本決まりになりつつあった。管理職をしながらサッカー部の指導をするのは不可能に近い。こうした事情もあり、非凡な才能を垣間見せていた本田を、選手だった学生時代からよく知っていて、その後指導者仲間になった鴨川コーチが指導しているガンバ大阪ジュニアユースに託したいと考えたのだ。

「『面白い子がおるから1回連れていくわ』と鴨川君に私のほうから電話を入れました。ガンバのアカデミーは当時、ジュニアユースのコーチだった鴨川君が中1を担当していて、ジュニアユース監督を島田君、ユースの監督を西村昭宏君がやっていました。
 
 私が圭佑を連れていくと、最初にアップを兼ねて3対1をやりましょうということになった。私と島田君、西村君が攻撃側に入って、圭佑は鬼になってボールを追いかける側に回ったのだけど、あいつはムキになって西村君のスネを削りよった。『こいつ、やりよるな〜』と西村君も感心していました。

 2010年南アフリカワールドカップで圭佑が大活躍した後、『あのときの小僧がえらいことになりましたな』と彼と思い出話に花が咲いたくらいです」
 
 田中監督は圭佑少年の武勇伝を懐かしそうに振り返った。鴨川コーチも負けん気の強い小学生のプレーに少なからずインパクトを受けた。

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