原石は、撫でているだけでは光らない。G大阪・森下仁志監督の“育成哲学”

2019年11月08日

育成/環境

食野亮太郎、福田湧矢を筆頭に、ガンバ大阪U‐23から原石が欧州、トップチームに続々と羽ばたいていった。今年からガンバのOB森下仁志がU‐23の監督に就任したことで、加速度的に原石が研磨されているような印象を受ける。はたして森下監督は「とんがっているヤツら」に何を施したのか? 今月6日に発売となった『フットボール批評 issue26』からインタビューの一部を紹介する。

『フットボール批評 issue26』より一部転載

文●下薗昌記 写真●安田健示


森下仁志

 
ガンバ大阪流 原石の磨き方
 

――森下監督は現役時代もガンバ大阪でプレーしています。U‐23監督就任の経緯を改めて聞かせてください。

「プロの選手としてスタートさせてもらったのがガンバで、その後ジュビロ磐田で引退し監督までさせてもらいましたけど、やはりどのチームで指導していてもガンバの様子はすごく気になっていたし、僕にとっては愛着のあるチームでした。生まれ故郷も近く、中学も吹田の近くなので、やはり特別なものがありました。正式にオファーを受けたのは昨年末でしたが、ありがたかったです」

――U‐23は若手の育成がメインとなります。帝京高校の後輩でもある松波正信強化アカデミー部長からは、どのようなリクエストを受けたのですか。

「特にこういう感じでと強調されたことはありませんが、やはり選手を育てたい、鍛えたいということについては話をされたし、正式なオファーを受ける前からある程度、話はしていました」

――これまでに磐田を含めてJ1とJ2のカテゴリーで指揮された経験がありますよね。J3での指揮に抵抗感はなかったのですか。

「いやいや、まったくないです。僕は育成のアカデミーだろうが、J1だろうがJ2だろうが、こだわりはまったくない。いいのか悪いのかわかりませんけど、どこで指揮しようとも自分がモットーとしているスタイルは変わりません」

――森下監督のモットーを具体的に聞かせてください。

「僕は33歳のとき磐田で引退しましたが、最後のシーズンはトップチームのメンバーに入れず、上田康太(ファジアーノ岡山)、太田吉彰(磐田)が若いころに、33歳の僕が彼らと人で違うグラウンドで練習をしていたこともあったんです。僕がなぜ磐田に移籍したかというと、その前はJ2のコンサドーレ札幌でプレーしていたんですが、当時、横浜F・マリノスと磐田からなぜかオファーを受けたんです。

 当時から将来は指導者になりたかったんですが、当時は磐田の黄金期でそのサッカーが日本で称賛されていたので、磐田で勉強したいという思いがありました。磐田で過ごした2年目に先ほど言った状況になったのですが、トップの練習が終わったあと、実はユースの練習にも参加させてもらっていたんです。当時の監督が前々回のU‐20日本代表の監督だった内山(篤)さんで、年間勉強させてもらいました。午前と午後の練習を選手としてこなしたあと、夕方からユースの選手と一緒にプレーしながら勉強しました。

 そうしているうちに内山さんから『ここに残ってやらないか』と言っていただいたのが指導者としてのスタートです(2006年にユースのコーチに就任)。その当時、最初に内山さんから言われたのが『選手に選ばれる指導者にならなきゃダメだ』ということです。

 この人とやってよかったとか、この人とやっているとうまくなるとか、この人の練習は楽しいなとか『一緒にいて成長できると思わせる指導者にならないと仁志、ダメだぞ』と言われたのが今でもインパクトに残っています。それがモットー、ベースにあります。それはJ1だろうがJ2だろうが変わらないし、今もそういう気持ちで指導しています。

 ただ選手に好かれようと思っていたらダメで、そんな気持ちは毛頭ない。毎日の練習が選手との勝負だと思っているし、どういう練習をしようかという点は一番頭を悩ませる点です」

食野亮太郎
【大阪から飛び立ち欧州の舞台で活躍する食野亮太郎】

 
「U‐23はダメな選手が来るところではない」
 

――今年のU‐23の方針はプロ契約の若手だけでなく、ユースの選手も積極的にJ3でプレーさせることで成長をさせるのが狙いだ、と昨年末、松波強化アカデミー部長は話していました。ただ、今年月の始動時は限られた人数でのスタートとなり、あれほど少ないと想像されていたのですか。

「監督を引き受けた時点で今季の編成が何人になるかは聞いていなかったんですが、磐田のトップコーチをしていた当時、残り組が人でも練習をしたことがあった。人いたら十分に練習できるんです。現在ツエーゲン金沢で監督をされている当時のサテライト監督の柳下(正明)さんは僕に一任してくれていたのですが、トップのオフト監督は『トップの選手とメンバー外の選手を合わせるな』という方針でした。僕たちは時半くらいから人の選手に加えて、ユースの選手を呼んで練習をさせたりしていた経験もあるので、こういう環境には免疫がありました」

――森下監督自身も現役時代にメンバーに食い込めず少人数での練習も経験されています。限られた人数で練習することも多いU‐23の指導をする上でも役立っているということですね。

「まず5、6人で練習することの精神的な厳しさがわかります。それは身をもって知っている。僕なんてヤマハのグラウンドで練習さえできず、歳にしてエコパの多目的グラウンドで練習していましたから。当時はおじさんたちが犬の散歩をしているようなエコパのグラウンドで5人で走っていました。ガンバの若い選手がクラブの練習場でやれている時点でまだマシです。僕はそういう経験をしているので、励まし方はわかっているつもりです」

――1月の始動直後、トップチームの合宿に呼ばれなかった食野亮太郎、市丸瑞希ら数人の選手を前に、「U‐23はダメな選手が来るところではない」と言葉をかけられたと聞きました。メンタル的に難しい立場にいた選手たちをどう鼓舞したのですか。

「それまでの1週間はU‐23のメンバーもトップと一緒にやっていて、立ち上げの週間を見ていたときにU‐に回されるであろう選手が誰かというのはだいたいわかっていたんです。プレーを見ていると『あぁ、こういう現状の選手なのか』とつかめたのが大きかったです。トップの合宿に行けず人だけの練習になり、あの寒い季節でGKもいないし、ただ広いグラウンドが墓場みたいな雰囲気でした。去年のU‐23はシーズン終盤にトライアウトに行った選手もいたんです。自分が指導する選手たちを同じようにはさせたくなかった。『ここはダメな選手が来る場所じゃない、U‐23に来たらトップに上がれるんだ』と声をかけたのは、同時にそれは自分自身にプレッシャーをかけることでもありました。U‐23に来たら何歳だろうがトップに上がっていけるグループにしないといけないと決意していました」

――食野、市丸、芝本蓮はそれぞれ課題を抱えていたと思います。当時、彼らの課題をどうご覧になっていたのでしょうか。

「技術的にはうちの選手は高いものがあります。自分のプレーをどう表現するか、どういう姿勢でグラウンドに立っているのか、ということです。1年目の奥野耕平は別としてすでにプロでやっている選手がそういった現状なのは、うまく自分の感情をプレーで表現できていないということなんです。亮太郎は特に技術面では一目見たときから上手だと思いましたが、同時にうまく使えていないとも感じました」

――たしかに当時の6人には素晴らしい素材がそろっていました。やはり彼らの才能には何かを感じるものがありましたか。

「とにかく技術は高い。いろいろなチームを指導してきましたが、ここで指導するためにやってきたのかもしれないなという、人生のつながりを感じています。若くして監督を経験させてもらって難しい状況、思い通りにいかなかった経験が今に生きているのかな、と。僕は監督になってからそれに気がつきましたが、選手時代に気づいてくれれば、彼らのサッカー人生はもっといいものになるはずです」


続きは発売中の最新号『フットボール批評 issue26』からご覧ください。


<プロフィール>
森下 仁志(もりした・ひとし)
1972年9月21日生まれ、和歌山県出身。順天堂大学卒業後、1995年にガンバ大阪に入団し、2001年まで在籍。2005年(ジュビロ磐田)を最後に引退し、2006年からジュビロ磐田ユースのコーチに就任。2008年にトップチームのコーチに昇格。2012 年にジュビロ磐田、2015年にサガン鳥栖の監督などを歴任。2019年にガンバ大阪U-23の監督に就任した。


批評11
【商品名】フットボール批評 issue26
【発行】株式会社カンゼン 
2019年11月6日発売

今号は 中毒性の高い“面白いフットボール”の正体を暴く。

「勝利に優る面白さなどない」と謳われてしまえばそこで話は終了する。フットボールがここまで繁栄したのは、合法的にキメられる要素がその内容にあるからではあるまいか。Jリーグウォッチャーであれば現在、横浜F・マリノスが快楽的なフットボールを求道しているのはお分かりであろう。

では、“面白いフットボール”を披露する境地とはいったい何なのか?
選手、コーチの目線を通して“ポステコ病”の全貌に迫る。


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