反骨心と向上心を感じさせる日本代表・原口元気選手。「生意気だった」少年の成長記

2016年10月07日

コラム

『この子は将来プロになる』

 年明け早々に湾岸戦争が勃発し、バブル崩壊がじわじわと表面化するなど、日本の世相が大きく変化しつつあった91年5月、埼玉県熊谷市の原口家に3800グラムの元気な次男が誕生。家族全員が喜びに包まれた。

「我が家にはすでに4つ上の長男・嵩玄(しゅうと)がいて、サッカー好きの私が長男の名前をつけました。次男は逆子で生まれたので、まず元気に育って、人に元気を与える人間になってほしいという願いを込めました。その下に94年生まれの妹・野恵瑠(のえる)がいるんですが、娘の名前は妻と長男・次男が考えたんです」と父・一さんは3人の子どもたちの命名の由来を打ち明ける。

 父方の祖父・富夫さん、祖母・幸子(ゆきこ)さんを含め、7人の大家族の中で育った元気少年は、幼い頃から活発そのものだった。近所の川へ出かけてザリガニを取ったり、野山を駆け回ったりと、外に出てイキイキと遊ぶ幼少期を送っていた。

 サッカーボールを蹴り始めたのは、保育園に通い始めた頃。きっかけを作ったのは、もちろん一さんだ。今も埼玉県のシニアリーグでプレーする現役FWの父は、奥寺康彦(現横浜FC会長)が活躍していた80年代後半にドイツ・ブンデスリーガを現地観戦しに出かけたこともあるほど、根っからのサッカー好きだったのだ。

「父親は足が速かったみたいなんで、前の方のポジションをやっていたようです。まあ、そんなにうまくなかったんじゃないかな(笑)。僕にはとにかく厳しくて、3~4歳の頃に『リフティングを30回できるようになるまで帰ってくるな』としょっちゅう言われました。家の前が公園だったんで、そこでガムシャラにやった記憶があります。そのおかげで、小学校に入る頃には何百回もできるようになっていました」と原口は父のスパルタ指導を懐かしそうに振り返る。

 一さんが厳しく当たったのは、元気少年に際立ったサッカーセンスがあると見抜いていたから。「何もかもが他の子どもたちと違う」と感じた父は、家から近い保育所に通っていた元気少年を、サッカークラブのある少し離れた若竹幼稚園に転校させるという大胆な行動をとったくらいだ。

「『この子は将来プロになる』と元気が幼稚園児だったとき、直感的に思いました。体の使い方や動きのすばやさ、技術習得の速さなど、あらゆる面が長男や同い年の子どもとは違いましたからね。若竹幼稚園では小学校チームに入って2~3年生と一緒にプレーしていましたが、遜色なかったですね」と父は言う。

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