「僕、みやぎへ行く」。日本代表の”10番”香川真司、サッカー人生を変えた決断までの道

2018年06月13日

サッカーエンタメ最前線
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12日(火)に行われた親善試合で日本代表はパラグアイに4-2で勝利を飾りました。トップ下で先発出場した香川真司選手(マリノFC/東舞子SC/神戸NKサッカークラブ)が1ゴール2アシストをマーク。ダブルタッチでDFをかわし、冷静なシュートを決めるなど本来の輝きを取り戻しました。今回は、香川選手の原点を振り返ります。

文●元川悦子 写真●GettyImages

『僕らがサッカーボーイズだった頃 プロサッカー選手のジュニア時代』より一部転載

※この記事は、2014年5月17日に掲載されたものを再編集したものです。


INNSBRUCK, AUSTRIA - JUNE 12:  Shinji Kagawa of Japan reacts after missing a chance during the international friendly match between Japan and Paraguay at Tivoli Stadion on June 12, 2018 in Innsbruck, Austria.  (Photo by Masahiro Ura/Getty Images)

ジーコに憧れていた

 香川真司が香川家待望の長男として兵庫県神戸市で生まれたのは、89年3月。日本が昭和から平成へと新時代をスタートさせた直後のことだった。ベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦が終結しつつあったこの頃、世界のサッカー界では90年イタリアワールドカップに向けた予選が各地で行われていた。

 しかし、アジア1次予選で北朝鮮に敗れて最終予選進出を逃すなど、日本と世界との差はかけ離れていた。本大会どころか、最終予選にさえ進めない不遇の時代に生を受けたひとりの少年が、20数年後、世界トップクラブで大活躍し、日本中を魅了することになる。

 香川がボールを蹴りはじめたのは、幼稚園に入った頃。ちょうど日本中が93年5月15日に開幕したJリーグの熱気に湧き返っていた。ブラジルやオランダ、イタリアなど世界各国からスタープレーヤーがやってきて、ピッチ上で躍動する姿を目の当たりして、幼かった少年は胸をときめかせていた。

 特にお気に入りだったのが、ジーコである。

「僕は鹿島アントラーズの大ファンだったんです。ジーコにはすごく憧れてました。Jリーグの中継も鹿島の試合はよく見てましたし、たまに鹿島が神戸で試合をすることがあると、喜んで出かけていった記憶があります」

 幼稚園の頃から、自宅近くにあった地元の町クラブであるマリノFCに参加した。ここでは楽しくボールを蹴りつつ、キックやドリブル、トラップなどの基本を習得に力を入れていた。

 両親も「好きなことをさせよう」という考えだったから、黙って見守ってくれた。「両親には試合のときは送り迎えをしてもらったり、いろんなサポートをしてもらいました」

サッカー人生を支えた恩師との出会い

 その一方で、真司少年は低学年の頃から自立心が芽生えていた。

 「僕は何もかも親に頼ったらダメだと思っていました。できる範囲のことは自分でしっかりやろうという自覚はありましたね」

 そんな香川にひとつの重要な出会いが訪れる。小学4年生に上がった98年春、彼が参加した神戸市トレセンの選考会に、その後の人生を大きく左右することになる恩師・富澤尚史コーチが担当指導者として来ていたのだ。富澤コーチは、14年前の出来事を、昨日のことのように覚えている。

 「神戸市では小学校のトレセンを東西南北の4つに分けて実施しています。真司は西地区の選考会に来ていました。技術的に高く、ドリブルが上手な子がたくさんいましたが、真司はその中でも特にやわらかいボールタッチをしていたのが印象的でした。この選考会を機に、彼は神戸市トレセンに選ばれ、練習に参加するようになりました。私も4年生から6年生までずっと真司の学年を担当してましたから、高学年のときはずっと一緒でした。今もそうですけど、ホントにサッカーが好きな子で、目を輝かせてボールを蹴っていた。高学年と言えば、TVゲームとかいろんなことに興味を持つ年頃なのに、そういうことには脇目もふらず、一生懸命やってましたね」

 こう話す富澤コーチには、香川の非凡な才能の片りんを感じた1シーンがある。それは4年生時のトレセン大会での試合中にあった出来事だ。

 前線でボールを受けた真司少年は、フリーでシュートを打てる絶好のポジションを取っていた。富澤コーチも当然、彼がそのまま打つと思っていた。ところが、右から上がってきた選手に意表をついてラストパスを出した。ここまで突然のプレー変更は普通の子どもにはできない。その状況判断の鋭さに驚きを隠せなかった。

 「『なんでお前が打たないんや』と真司に聞いてみると、『右から上がってきたやつに出した方が確率が高いと思ったから』と淡々と言うんです。確かにあの場面ではそうでした。右にいた選手はラクラクとゴールを決めていましたからね。そうやって冷静にピッチ全体を見渡して、臨機応変に判断するのは簡単そうに見えて難しい。私も日頃から『相手の動きを見て逆を取れ』とよく選手にアドバイスしていましたが、実際にできる子はそうそういないんです。

 でも真司はドリブルひとつ取っても、相手の位置や動きを見ながら緩急をつけたり、間合いを瞬間的に変えたりする。味方からパスが出てきたときも、敵が足元に寄せてきたら、ファーストタッチ一発でかわすとか、横にズレるとか、そういう微妙な動きがホントにうまかったですね。私はたくさんの小学生を見てきましたけど、『この子はすごい』と心底、思ったのは、真司と廣田隆治君(ガイナーレ鳥取)のふたりだけですね。真司と一緒にいればいるほど、潜在能力の高さがよくわかりました」

 自分を高く評価し、熱心に教えてくれる指導者に真司少年もすぐなついた。富澤コーチが指導に携わっていた垂水セントラルというサッカースクールにも徐々に顔を出すようになる。

自由な発想の「コーンドリブル」で感覚を磨いた

 そして5年生のとき、富澤コーチが神戸NKサッカークラブ(センアーノ神戸岩岡スクール)で教えることになったという話を聞きつけ、真司少年は所属チームを変えたいと思いはじめる。両親の意向もあって、彼は一時的に東舞子SCというクラブに移ったが、5年生の冬前くらいに、神戸NKに入り直した。

 「神戸NKに行ったのは、富澤さんがいたし、より強いチームでやりたいという気持ちが強くなったから。自分にとってもいい選択だったと思います」

 神戸NKの練習場は六甲アイランドにあり、自宅のある垂水区からは電車を乗り継いで1時間以上はかかる。小学生にとっては決して近い距離ではない。それでも両親の助けを借りず、できる限り自分で通った。1学年上に森島康仁(栃木ウーヴァFC)や吉井直人(現役引退)ら将来Jリーガーになる選手もいて、週3~4回のトレーニングはとにかく楽しかった。

 神戸NKは2010年にセンアーノ神戸に改称して現在に至っているが、指導方法はクラブ発足時から一貫している。大木宏之代表兼ジュニア監督が「ウチはドリブラーを育成します」と断言するほど、技術志向が高い。練習もドリブルやフェイントなどを個人のスキル向上につながる内容を多く取り入れている。

 一例をあげると、日常的に行われているメニューに「コーンドリブル」というものがある。コーンを数カ所に置き、ドリブル練習をするというものだ。普通のチームでは、単純なジグザグドリブルなどをやるケースが多いが、同クラブではすべて自由な発想でやらせる。

 ダブルタッチやボールを浮かせる工夫もOKだし、ひざ関節や股関節の可動域を広げるための足裏ロール、インアウトを使った動きなどは積極的に取り入れるようアドバイスしている。香川も足裏ロールやインアウトを使ったドリブルが非常に巧みで、国際舞台でもこのテクニックを駆使して相手をきりきり舞いしている。

 それも神戸NKで自分の感覚を磨き、イメージを膨らませたことが大きいのだろう。

1日のプレー時間が5~6時間にのぼることも

 真司少年がスキル修得にどれほど貪欲だったかを、富澤コーチと一緒に指導していた大木宏之代表は改めて語ってくれた。

 「真司は僕らコーチに1対1を仕掛けて遊んだり、大人と一緒にミニゲームをすることで、ボールタッチの感覚を一生懸命、養ってました。大人や同級生とプレーするだけでは飽き足らず、低学年や幼稚園のスクールまで顔を出して、足技を磨くことをいとわなかった。ちっちゃい子を相手にマルセイユルーレットをする真司の姿はしょっちゅう見ましたね。あの子は世界的名選手のビデオを見て真似るのも好きでした。僕が持っているワールドカップやトヨタカップ、Jリーグのビデオを借りていくことも多かった。それを見てはイメージを膨らませていたと思います。何でも自分から自発的にやっていた真司の姿勢は、多くの子どもの中でも目を引きました」

 6年生になると、神戸NKの練習に加えて、富澤コーチが指導していた垂水セントラルの練習にも週2回ペースで足を運んだ。こちらのスクールは子どもから大人までいろんな人がいる。

 真司少年は年上の仲間に入っても決して物怖じしなかった。逆に小さい子の仲間に入って、一緒に楽しくやりながらアイデアをもらうことも多かったという。

 神戸NKもサッカースクールも休みのときは近所の友達とミニゲームをするなど、本当に暇さえあればサッカーに明け暮れていた。1日のプレー時間が5~6時間にのぼることも珍しくなかった。それでも全く飽きないというのだから「根っからのサッカー好き」としか言いようがない。

 「サッカーが人生そのもの」と本人も言う通りの小学生時代を過ごしていたのである。

 「小学校の頃を振り返ってみると、サッカー以外の思い出は特にない。毎日サッカーばっかりで、勉強も全然やっていなかった。親にも『宿題はちゃんとやりなさい』と言われていたんですが、やったふりをしてごまかしたりしてました」と香川は苦笑する。

真司少年「僕、みやぎへ行く」

 そんな子どもがプロサッカー選手を目指すのは当然のこと。彼は当時からハッキリと未来を見据えていた。一般的なら、卒業後は近くにあるヴィッセル神戸やガンバ大阪、セレッソ大阪など有名なJリーグのジュニアユースに進んで、プロの道を目指すことを考えるものだ。

 しかし、彼は違った。

 「近くには自分が行きたいチームがあんまりなかったんです。ヴィッセルに行くとプロになるのはトップ昇格しか選択肢がなくなってしまいますからね。そう考えたら、町クラブへ行く方がプロへの近道かなと思いました」

 さらにここで真司少年は、意外な決断をする。県内ではなく関西から遠く離れた宮城県にある「FCみやぎバルセロナ」を選んだのだ。

 実はそのきっかけをつくったのも、富澤コーチだった。

 「みやぎの指導者が私の教え子だったこともあって、年に2回くらいは交流を持っていました。真司が小5のとき、みやぎのジュニアユースが神戸に来たことがあって、丹野研太(セレッソ大阪)や青山隼(現役引退)たちと一緒にプレーしたことがあるんです。テクニックのある年上の選手たちと一緒にボールを蹴ったのがすごく楽しかったのか、これを機に『みやぎへ行きたい』という気持ちが芽生えはじめたようでした。

『香川君が来るなら受け入れますよ』と先方からも申し出てもらって、私たちも少しずつ話が進みました。その年の秋口に私と一緒にみやぎへ行き、冬休みにはひとりで行かせて指導者に面倒を見てもらうなど、何度か現地の様子を見る機会も作りました。小6の夏、神戸NKで行った東北遠征時も仙台に滞在しました。真司もホームステイして、みやぎの同年代の子どもたちとも仲良くなった。これで完全にイメージが出来上がったんだと思います」

 真司少年が「僕、みやぎへ行く」と宣言したのは、この遠征後だった。

 しかしながら、12歳の少年が単身で仙台に引っ越すわけにもいかない。クラブに中学生用の寮があるわけでもない。ただ、幸いにも当時のみやぎバルセロナには里親制度があり、彼が生活できる環境が整うことになった。

 本人はやる気満々。両親は独り立ちする息子のために「これからウチを離れるんだから、自分のことは自分でやりなさい」と言って、洗濯や掃除を自分でできることは何でもさせていた。

 ところが、卒業が近づいたある日、その里親制度が利用できないことが判明した。富澤コーチも真司少年もがっかりし、一度は諦めかけた。そんなとき、北海道から同時期にみやぎに来ることになった1学年上の選手のお母さんが「真司君をウチで預かってもいい」と申し出てくれたのだ。

 何とかギリギリで受け入れ先が決まり、仙台市立八乙女中学校に通いながら、自分がプレーしたかったチームに通えることになった。

 あえてJクラブを選ばず、わざわざ実家を離れてまで、個性重視の町クラブを選んだことが、香川真司のサッカー人生を大きく変えた。

 FCみやぎバルセロナは98年にジュニアユースのチームとして発足。香川がやってきた2001年にユースも作られた。もともと地域の指導者が「大切に育てられた子たちの才能を大きく開花させよう」という方針で作ったクラブで、長所や特徴を伸ばす指導を何よりも大切にしていた。

 「バルセロナ」という名前がついているため、本家のFCバルセロナと提携していると間違えられがちだが、実際は全く関係ないという。

 「Aチーム、Bチームという言い方が子どもたちにとってあまりよくないという意見があって、Aチームはバルセロナ、Bチームはユベントス…といった名づけをしたんです。真司の学年は100人近い人数で、ユースを含めると総勢250人はいたので、バルセロナ、ユベントス、ミランなど8チームくらいはあったと思います。その方が子どもたちも劣等感を抱くことなく、高いモチベーションでプレーできる。すごくいいアイデアだと思いました」と柴田コーチは背景を説明してくれた。

最初に真司を見たとき、「ホントにあの子だけ中2なのか?」とびっくりした

 神戸NKと共通する哲学を持ったこのクラブで、香川は最大の武器であるドリブル突破をとことん突き詰めることができた。

 「全員が仕掛ける姿勢を持つように指導されていたし、みんなそういう意識がすごく強かった。僕の中でもドリブル突破というのが一番にありました。中学生の頃は、特に個の力を磨くことを最優先に考えてやってました」

 みやぎ行きを勧めた富澤コーチも、「真司の魅力を研ぎ澄まそうとする指導者たちがしっかりと考えなければ、一番のよさが消されていたかもしれない。指導者は信念を持って子どものいい部分を認め、引き出す努力をすることが最も大切です。そういう哲学を持つチームに行ったのは、本当にいい選択だった」と強調する。

 新天地に赴いた香川は、小学生の頃以上に、大好きなサッカーにまい進しようとした。とはいえ、12歳になったばかりの子どもが、他人の家で気兼ねなく暮らすのは難しいものだ。

 家族や指導者などをまじえ、最善策を話し合いながら、半年が経った頃、神戸から祖母が仙台まで来て、同居してくれることになった。

 「おばあちゃんが一緒にアパートに住んでくれることになったし、仙台の人たちも助けてくれた。だから、ホームシックにはならなかったですね。神戸に帰るのは年に一度か二度でしたけど、全然問題なかったです」

 香川は祖母や周囲の人々の気遣いに感謝する。

 生活環境もようやく整い、サッカーに集中できるようになると、1年生のときから飛び級でプレーした。みやぎでは「同じレベルなら下の学年の子を使う」という方針があり、早いうちから上のレベルの中で自分のスキルを試すことができた。

 柴田コーチは中学2年生から香川を指導するようになった。判断のスピード、止める・蹴るの技術、ポジションの取り方などには驚かされることばかりだった。

 「的確な状況判断も、正確なボールコントロールも、スピードを落とせばできる選手は少なくありません。そういう子は自分より年上の選手の中に入ってスピードやパワーが上がると、思うようなプレーができなくなるのがほとんどです。でも真司は高校生相手でも全く同じように動いていた。中2~中3のころは相手のプレッシャーを一番厳しく受けるFWだったんですが、周りも完璧に見えてたし、そういう中で技術も安定していた。最初に真司を見たとき、『ホントにあの子だけ中2なのか?』とびっくりしたのをよく覚えています」

全国の舞台の経験が成長のきっかけに

 みやぎに優れた選手が揃っていたことも、彼にとってはいい刺激になった。とりわけ、当時U-15日本代表として2004年AFCU-17選手権を目指していた青山の存在はインパクトが大きかったと柴田コーチは捉えている。

 「青山がいたことで、真司はほぼ同世代の日本のトップレベルがどのくらいであるかを、常に身近で感じていた。どうすればああなれるのか、代表でプレーできるのかを真剣に考えたこともあったでしょう。そんな青山も、代表からクラブに戻ると、ちょっとしたおごりを出すことがあって、レギュラーからしばしば外されていた。そういうマイナス面もそばで見ていたはず。ひとつ年上の先輩のいい面、悪い面を身近で学び、活かせたのは、真司のプラスになったんじゃないかと思いますね。みやぎの場合は青山みたいなハイレベルな選手もいる一方で、下手でも一生懸命努力する子もいて、中学や高校の部活動に近い環境でした。夏にキャンプに行くと、真司は周りに気を配りながら後輩の面倒もよく見てましたし、チームの和も大事にしていた。ピッチ上では遠慮なしにやっていましたが、人間性を成長させるいい機会になったんじゃないですかね」

 チーム内の人間関係や仲間と関わる大切さを学びながら、香川はサッカーに対する意識を日に日に高めていった。中学2年生でナショナルトレセンU-14に選ばれ、翌年は自身初の全国大会となる日本クラブユース選手権(U-15)にも出場した。

 神戸にいた頃は県大会さえ満足に出られなかった彼にとって、全国の舞台は、願ってもない力試しの場となったことだろう。

 遠く離れた神戸に住む両親も駆けつけ、清水エスパルスと高田FC、愛媛FCと同グループで戦った。が、結果は1次リーグ敗退。個々のスキルが高いだけでは勝てないことを香川は改めて痛感したはずだ。

 11人全員がチームのために献身的に尽くし、攻守両面で戦わなければ、勝利するのは難しい。サッカーの厳しさを突きつけられたことで、また一歩、成長するきっかけをつかめた。

 2004年春、香川はみやぎバルセロナのジュニアユースからユースにそのまま昇格。ひとつ上の青山は名古屋グランパスから誘いを受けて名古屋U-18に進み、同期生の数人も高校サッカーなど新天地を求めた。本人はこう強調する。

 「みやぎにいるのがベストな選択肢だと思った。迷いは全くなかったです」

 幸いにして、みやぎはユースに上がれば寮に入ることができ、宮城県立黒川高校に通いながらサッカーに力を注げる。これで祖母に負担をかけることもなくなる。そんな配慮もあっただろう。完全に家族から独り立ちした香川はさらに自立心を高めていった。

(続きは、『僕らがサッカーボーイズだった頃 プロサッカー選手のジュニア時代』でご覧ください)


プロフィール
香川真司(かがわ しんじ)

小学時代:マリノFC/東舞子SC/神戸NKサッカークラブ
中学時代:FCみやぎバルセロナジュニアユース
高校時代:FCみやぎバルセロナジュニアユース

1989年3月17日、兵庫県生まれ。MF。小学5年生から東舞子SCを経て、神戸NKサッカークラブに入団、県選抜にも選ばれた。中学生から高校2年生まで、仙台にあるFCみやぎバルセロナに所属。高校2年生の終わりにセレッソ大阪へ入団。2年目、当時のクルピ監督の目に留まり、レギュラーに定着。J2に35試合出場し、飛び級でU-20ワールドカップ日本代表にも選ばれた。08年に平成生まれとしては初めてA代表に選出され、同年の10月に行われたキリンチャレンジカップ対UAE戦で代表初ゴールを決めた。09年にJ2得点王に輝いたのち、ドイツ・ブンデスリーガへ。新天地でも見事にチームにフィットして、中心選手として活躍。2012年夏、マンチェスター・ユナイテッドへ移籍。現在はドルトムントでプレー。


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【商品名】僕らがサッカーボーイズだった頃 プロサッカー選手のジュニア時代
【著者】元川悦子
【発行】株式会社カンゼン
四六判/256ページ
2012年7月23日発売

香川真司、岡崎慎司、清武弘嗣……『プロ』になれた選手には、少年時代に共通点があった!本人と、その家族・指導者・友人に聞いたサッカー人生の“原点”。プロの道を切り拓いた背景には、「家族」の温かい支えと、転機となる「恩師」「仲間」との出会いがあった。

※ご購入はジュニサカオンラインショップまで

 


 

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