街クラブから世界を目指す――。ブリオベッカ浦安が描く未来

2016年03月18日

コラム

元町、中町、そして新町。ひとつになれない浦安

 今ではなかなかイメージしづらいが、もともと浦安は800年の歴史を誇る漁師町であった。千葉県随一の海苔の生産地であり、イワシ、イカ、アサリ、ハマグリなどもよく漁れたという。映画『男はつらいよ 望郷篇』(1970年)では、木造の漁船が水辺に並ぶ、当時の浦安を見ることができる。浦安駅周辺に、釣り道具屋や海鮮料理の店が多いのも漁師町時代の名残だ。

 もっとも寅さん映画が撮影されていた頃、すでに浦安の漁業は風前の灯火であった(漁業権の完全放棄は71年)。58 年、本州製紙江戸川工場から流れた黒い排水によって、下流域の浦安の漁業は壊滅的な打撃を受けたからだ。

「本州製紙事件」とも「黒い水事件」とも呼ばれるこの出来事は、水俣病の発生が確認された2年後にあたり、60年代に深刻化するわが国の公害問題の先駆けとなった。その後、本州製紙は地元漁民に補償金を支払ったものの、水揚げ量は激減。浦安町(当時。市政は81年から)は漁業を諦め、湾の埋立による地域再生に活路を見出す。海面埋立事業がスタートしたのは、東京五輪が開催された64年であった。

 浦安が大きく変貌する契機は、この埋立事業だけではなかった。まず69年の東西線開通、そして83年の東京ディズニーランド開業。とりわけ後者については、漁業に代わる新しい街づくりの中心と考えられていたため、誘致失敗は許されなかった。当時の熊川好生町長(のちに初代市長)が渡米。ウォルト・ディズニー・プロダクションの首脳と直談判して、ディズニーランドの浦安誘致の確約を取り付けたという(当時、浦安以外にも長野県大鹿村、静岡県清水市=現静岡市清水区が「候補地」とされていた)。

 東西線の開通と東京ディズニーランドの開業、そして90年には京葉線が全線開通したことで、浦安の人口流入は一気に加速。浦安駅が開業する以前は2万人ほどだった人口は、91年には11万4000人、現在は16万4000人が暮らす。そのほとんどが、市の外からやって来た人々だ。

 子育て世代が多く暮らす浦安は、確かに一面、活気に溢れているように感じられる。しかし漁師町の風情を今も色濃く残している元町、そして地縁をほとんど持たない人々が流入した中町と新町とでは、気風も価値観も全く異なる。実際、地元のお祭りでも両者が交わることはほとんどないそうだ。決して大きな自治体とは言い難い浦安だが、それでも市民が一体となることがほとんどないまま、今に至っている。

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