「夢に向かうシンプルな生き方」を追求し続ける本田圭佑選手が歩んできた半生とは?

2014年06月07日

サッカーエンタメ最前線

卓越した自己分析と抜群の実現力で、多くの挫折を乗り越えてきた本田圭佑選手(ACミラン)。以前からそのメンタルや意志の強さが語られてきた本田選手ですが、その秘密を紐解く鍵は、プロになるまでの道のりの中で、自身が経験したことや家族との関係に隠されているようです。今回は本田選手が歩んできた半生をご紹介したいと思います。

文●元川悦子 写真●Getty Images

「僕らがサッカーボーイズだった頃2 ブラジルワールドカップ編」より一部転載


父親の口癖が、本田のこだわりを強くさせた

 本田があらゆる面でトップにこだわったのは、父・司さんの影響が極めて大きい。

 「一番になれ!」

 それが、父親の口癖だったのだ。

 「親父にはキリがないくらい、いろんなことを言われたけれど、それは重要なキーワードのひとつです。『お前が休んでいる間にブラジルでは練習しているぞ』と言われたこともありました。ようは人の上に行きたければ、人より一生懸命やらなきゃダメってこと。当たり前のことだけど、それを何度も何度も繰り返し教えてもらったのは大きかったです。摂津FCの試合もごくたまに見に来てくれたけれど、その後は悲惨でした。『お前の試合は全く見れへん』とか容赦なく言われましたから(苦笑)。そういう人だけど、親父から僕は男としてどうあるべきか、カッコいい男とは何かを学びました。本田家っていうのはとてつもない一家で、厳しいのは親父だけじゃなかった。おじいちゃんにも『お前なんか絶対に一流になられへん』『甘い』と毎日怒られていました。俺と兄貴がウチで寝ていると『外走ってこい』と。『お前らみたいな休んでいるやつがなんで一流になれるんや』と言われてね。僕は小さい頃からそんな家族に認められたい一心だったかもしれない。毎回『見返してやる』って思っていましたから」

 摂津FCに通い始めた小学2年生のときに両親が離婚し、母不在の家庭で育った本田は、祖父、父、兄という強い男家族から逞しさを学び、ハングリー精神を研ぎ澄ませていった。

 そして高学年になると「サッカーで一番になろう」と真剣に考え始める。プロになり、海外でプレーする自分を思い描くようになったのだ。小学校の卒業文集に「将来はイタリアのクラブで10番をつけてプレーする」と書いたのは、彼にとっては夢ではなく実現可能な目標であったのだろう。その理想をしばしば兄と語り合うことで、自分自身を鼓舞していたのである。

 そんな圭佑少年だったが、摂津FCは摂津大会を勝ち抜いて三島大会に出るのが精いっぱい。全日本少年サッカー大会出場を考えられるレベルではなかった。小学校卒業後は田中監督が指導する摂津二中へ行くのが順当なコースだと見られた。

 ところが、田中監督は弘幸さんが卒業するのと同時に摂津五中へ異動し、教頭に昇格する話が本決まりになりつつあった。

 管理職をしながらサッカー部の指導をするのは不可能に近い。こうした事情もあり、非凡な才能を垣間見せていた本田を、選手だった学生時代からよく知っていて、その後指導者仲間になった鴨川コーチが指導しているガンバ大阪ジュニアユースに託したいと考えたのだ。

 「『面白い子がおるから1回連れていくわ』と鴨川君に私のほうから電話を入れました。ガンバのアカデミーは当時、ジュニアユースのコーチだった鴨川君が中1を担当していて、ジュニアユース監督を島田君、ユースの監督を西村(昭宏=現アイゴッソ高知監督)君がやっていました。私が圭佑を連れていくと、最初にアップを兼ねて3対1をやりましょうということになった。私と島田君、西村君が攻撃側に入って、圭佑は鬼になってボールを追いかける側に回ったのだけど、あいつはムキになって西村君のスネを削りよった。『こいつ、やりよるな~』と西村君も感心していました。2010年南アフリカワールドカップで圭佑が大活躍した後、『あのときの小僧がえらいことになりましたな』と彼と思い出話に花が咲いたくらいです」

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