なぜ全日本少年サッカー大会は生まれたのか。大会の礎を築いた男の情熱と哲学

2017年12月22日

コラム
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サッカー不毛の地でも子どもは子ども

——当然ながら、大会を続けていくうちに、「全少に」というのは子どもたちにとってはものすごく大きなモチベーションのアップになっていったと思うんですが、長い歴史の中で、先生が特に一番印象に残っているチームはいらっしゃいますか?

「沖縄ですよ。最初のこのスポンサー第1回の時、沖縄が出て確か一試合で23点ぐらいとられてますよ。(埼玉下落合与野との対戦)ところが、それが半分半分に減っていくんですよ。それで今、どうですか?高校サッカーとか見て。フロンターレの我那覇(現カマタマーレ讃岐)ね。優秀な選手はこれからもいっぱいでてきますよ。

 それから沖縄から本土に上がってきて、越境して高校に入っている子だっているんですよ。沖縄のサッカーは北海道と一緒で不毛の地と言われてきたけどね、やっぱり、競技人口が増えてきてそれなりの指導者がついてやれば、沖縄であれ、静岡の清水であれ、子どもは子どもなんですよ」

——なるほど、その段階にきてるということですね。あと、どうでしょう、ご苦労された点というと、これが一番大変だったというのは。

「これは口では表現できないね。第3回の時に町田で会場を引き受けると言ってくれた人がいて、それで助かったと言って、行ってみたら広い土地なんですよ。ここにサッカー場を何面か作るんだという話で。

 で、下見した時、あー、これは広いなーって。で、読売ランドに子ども達が集まってきて、それで、田中純二さんと会場を見に行こうと。そしたらね、ただね、畑をねブルドーザーでかき回しただけ。しかも、歩くだけでね、足がはまるぐらい、とてもじゃないけど、これじゃあ、明日から試合なんかできっこない、どうするって、ふたりで青くなったよ。それで、コーナーフラッグなんかも、コーナーフラッグじゃなくて、工事用の旗なんだよ。

 あの頃、サッカーの関係者っていっても、そういうことすら知らない人でも、指導者といっていたんだなと。工事現場の旗が立ててあるんだよね。それで、田中純二さんがどうしようもないと。サッカー協会の小野卓爾さん(故人)に電話でかけあったんだよ。これではどうしようもないって話したら、この時はじめて、金はいくらかけてもいいから、大会は予定通りやれって言ってくれて。すぐにダンプでね、砂を何台運んだかわからない。それを一晩でやった」

——すごいですね。

「だからあの時の、小野卓爾さんっていうのは、僕はすごかったと思ってね。第3回のこれはね、おそらく知っているのは、僕と田中純二さんだけでしょ」

——それは、おそらく、町田の畑かなんかだったんですかね。

「畑だよ。それで、そこで裁ききれないところを、急遽、近くの学校に手配してもらって、その校庭を借りて大会をやったんだよ。これが最大の苦労話だね」

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