「特別に目立つこともなかった」幼少期。中島翔哉の”才能”が磨かれた原点とは

2018年05月18日

コラム
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600〜700人の少年が受けるヴェルディのセレクションを突破

 小4までは松が谷FCを軸に、スクールに通ったり、従弟との自主練に励んでいた翔哉少年。

 その彼に1つの転機が訪れる。

 小松監督から東京ヴェルディジュニアのセレクションを受けるように勧められ、何百倍もの競争を突破。小5から通うことになったのだ。

「名門・ヴェルディのセレクションともなれば、600〜700人の少年が受けて3人くらいしか合格しない。お母さんも『きっと受かりませんよ』と心配されていましたが、翔哉はその関門を見事に突破しました。ウチのクラブから3人が最終まで進みましたけど、結局受かったのは彼だけ。それだけ際立ったスキルを備えていたということでしょう」と小松監督は教え子を快く送り出した。

 小5になった2004年、翔哉少年はヴェルディジュニアに入った。八王子の自宅から多摩のよみうりランドまでは電車を乗り継いで片道40分程度かかる。小学生には負担の大きい移動距離だったが、本人は喜んで平日の週3回、グラウンドへ通った。

「家に帰るのも遅くなったけど、全然大変じゃなかった。うまい人とできるのが楽しみだったから。練習はリフティングやシュート、ゲームが中心でした」と彼は言う。

 当時ジュニアの指導に携わっていたのは、永田雅人監督(現日テレ・ベレーザ監督)。永田監督は翔哉少年に「どんどんボールに触れ。うまい選手がボールに触らないとゲームにならない」とよくアドバイスを送ったという。

 それを頭に入れて、本人はボールに触れる場所にいるように心がけた。もともと感覚的にプレーするタイプではあったが、優れた指導者の的確なコーチングが、彼のサッカー観を研ぎ澄ませていった部分も少なからずあったのではないか。

 永田監督は映像を使った指導にも長けていた。ブラジル全国リーグやラ・リーガなどの映像を自ら編集し、練習前に子どもたちに見せて、意識向上を図るといったアプローチも頻繁に行っていたようだ。

「僕は当時、ロナウジーニョが好きだったんです。技術がとにかく高かったから。彼が所属していたバルセロナの映像はよく永田さんから見せてもらいました。ロナウジーニョは家でもボールをよく触っていたという話を聞いて、自分もそうしていましたし、ボールを抱いて寝てました」と中島は笑う。

 初めて見たワールドカップも憧れのロナウジーニョとロナウド、リバウドの3人が「3R」として日本中を席巻した2002年日韓ワールドカップだった。「いつの日か自分もああいう華やかな舞台に立って活躍したい」という夢は日に日に膨らんでいった。

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