「特別に目立つこともなかった」幼少期。中島翔哉の”才能”が磨かれた原点とは

2018年05月18日

コラム
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授業中もボールに触っていた

 6歳の彼の第一印象を、松が谷FCの小松博司監督は懐かしそうに振り返る。

「最初はお母さんが連れてこられたんですが、もともと人見知りな少年で、大人が話しかけるとサッとお母さんの後ろに隠れてしまうような感じでした。サッカーの技術も最初は他の子どもたちとそう変わらなくて、特別に目立つようなこともなかった。ただ、唯一違ったのは、『負けるとすぐ泣く』ということでした。1対1でも2対2でもミニゲームでも、負けると悔しくてたまらない。絶対に負けだけは嫌だという気持ちをむき出しにしてくる。そこまでスイッチが入って豹変する子は見たことがありませんでした」

 松が谷FCは発足から37年を迎える老舗クラブ。

 小松監督は少年指導歴40年超の大ベテランだ。教える内容にもこだわりがあり、技術面に特に力を入れている。今は「低学年まではドリブル1本」という考え方で、個人のスキルを身につけさせようと仕向けている。

「昔は中学・高校からサッカーを始める子もいましたけど、今は中学校以上はサッカー経験があることが前提になっている。その段階でボールを止める蹴る、ドリブルやフェイントがまともにできないと選手自身が困ると思います。そう考えて、とにかく低学年は個人技術習得を第一に考えています。

 翔哉の頃はドリブル1本ということはなかったですが、やはりリフティングやドリブルなどにかなり多くの時間を割いていました。練習時間は低学年が午前、高学年が午後という形になっていますが、翔哉は低学年の練習が終わった後、また 13時くらいにグランドに現れて、高学年の練習にも参加していた。

 当時はOBの社会人や大学生も練習を手伝ってくれていたので、彼らに構われながらいろんなテクニックに果敢に挑戦していました。

 彼のすごいところは、その場でできなかった技術を1週間後に確実にマスターしてくること。毎日、必死に練習していたんでしょう。小4の頃には大人顔負けのスキルを身に着けていました」と小松監督は努力家だった翔哉少年の一面を嬉しそうに話していた。

「練習のない日は近くの公園に行ってドリブル練習をよくしていました。コンクリートの上で裸足になってボールをコントロールすることも多かったかな。学校にもボールを持っていって授業中も触ったりしてました。もちろん先生に怒られて、取り上げられるんですけど、すぐに取り返しに行ってまたやるとか。そんなやつ、正直言って、頭おかしいですよね」と中島本人も苦笑いしていたほどだ。

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