“生意気小僧”原口元気の少年時代。「試合中、僕に怒られて仲間は大変だったと思います」
2018年06月21日
サッカーエンタメ最前線19日(火)に行われたロシアW杯初戦のコロンビア戦で右サイドで先発出場した原口元気選手(江南南サッカー少年団/浦和レッズジュニアユース/浦和レッズユース)は攻守ともに奔走し、気合溢れるプレーで日本代表の”大金星”に大きく貢献しました。小学生の時は埼玉県の江南南サッカー少年団に在籍していた原口選手。「試合中、僕に怒られて仲間は大変だったと思います」と当時を振り返ります。”生意気な性格”だったという原口選手の少年時代の秘話を紹介します。
再構成●ジュニサカ編集部 文●元川悦子 写真●GettyImages
『僕らがサッカーボーイズだった頃3 日本代表への道』より一部転載
父からのスパルタ指導
年明け早々に湾岸戦争が勃発し、バブル崩壊がじわじわと表面化するなど、日本の世相が大きく変化しつつあった91年5月、埼玉県熊谷市の原口家に3800グラムの元気な次男が誕生。家族全員が喜びに包まれた。
「我が家にはすでに4つ上の長男・嵩玄(しゅうと)がいて、サッカー好きの私が長男の名前をつけました。次男は逆子で生まれたので、まず元気に育って、人に元気を与える人間になってほしいという願いを込めました。その下に94年生まれの妹・野恵瑠(のえる)がいるんですが、娘の名前は妻と長男・次男が考えたんです」と父・一さんは3人の子どもたちの命名の由来を打ち明ける。
父方の祖父・富夫さん、祖母・幸子(ゆきこ)さんを含め、7人の大家族の中で育った元気少年は、幼い頃から活発そのものだった。近所の川へ出かけてザリガニを取ったり、野山を駆け回ったりと、外に出てイキイキと遊ぶ幼少期を送っていた。
サッカーボールを蹴り始めたのは、保育園に通い始めた頃。きっかけを作ったのは、もちろん一さんだ。今も埼玉県のシニアリーグでプレーする現役FWの父は、奥寺康彦(現横浜FC会長)が活躍していた80年代後半にドイツ・ブンデスリーガを現地観戦しに出かけたこともあるほど、根っからのサッカー好きだったのだ。
「父親は足が速かったみたいなんで、前の方のポジションをやっていたようです。まあ、そんなにうまくなかったんじゃないかな(笑)。僕にはとにかく厳しくて、3~4歳の頃に『リフティングを30回できるようになるまで帰ってくるな』としょっちゅう言われました。家の前が公園だったんで、そこでガムシャラにやった記憶があります。そのおかげで、小学校に入る頃には何百回もできるようになっていました」と原口は父のスパルタ指導を懐かしそうに振り返る。
非凡な才能を幼い頃から発揮
一さんが厳しく当たったのは、元気少年に際立ったサッカーセンスがあると見抜いていたから。「何もかもが他の子どもたちと違う」と感じた父は、家から近い保育所に通っていた元気少年を、サッカークラブのある少し離れた若竹幼稚園に転校させるという大胆な行動をとったくらいだ。
「『この子は将来プロになる』と元気が幼稚園児だったとき、直感的に思いました。体の使い方や動きのすばやさ、技術習得の速さなど、あらゆる面が長男や同い年の子どもとは違いましたからね。若竹幼稚園では小学校チームに入って2~3年生と一緒にプレーしていましたが、遜色なかったですね」と父は言う。
それだけの逸材なのだから、一番強いところでやらせたい……。そう考えた一さんは、元気少年が小学校に入学するや否や、自宅から車で約20分の距離にある埼玉県屈指の強豪・江南南スポーツ少年団に通わせることを決めた。
この少年団を束ねる松本総監督は少年指導歴40年を超える大ベテラン。しかしサッカー競技歴はなく、野球をやっていたという変わり種だ。その分、異種独特の目線で子どもを見ることができる。そんな人物にとっても、初めて見た元気少年には驚かされた。小1にもかかわらず、大人びたプレーをする彼の一挙手一投足に釘づけになったのだ。
「『小さいのにサッカーをよく知っているな』というプレーをしていましたね。ドリブラーでありながら、周りが見えていてパスも出せる。オールラウンドの能力があるのはすぐに分かった。『この子を同学年のチームでやらせてもしょうがない』と担当コーチと話して、上の学年に入れてプレーさせました。元気は小3で小6の大会に出ていましたね。ちょうど1つ上に新井涼平(ヴァンフォーレ甲府、3つ上にGKの笠原昴史(大宮アルディージャ)もいたので、そういううまい選手の中に入れた方がプラスになると思ったんです」(松本総監督)
「能活さんに憧れてGKになりたいと考え始めました」
江南南では低学年のうちはさまざまなポジションを経験させる方針を採っていて、元気少年はGKにもトライ。かなり本気で取り組んだようだ。
「飛んだり跳ねたりするのが楽しかったんです。家に畳の部屋があって、そこでボールを壁にぶつけて跳ね返ってきたのを自分で取るというのを結構やってました。少年時代の憧れのGKは能活(川口=SC相模原)さん。華やかでカッコいい感じがして、真面目にGKになりたいと考え始めました。でも親父に『ダメだ』と一蹴されましたけどね」と原口は笑う。一さんがそう言ったのも、息子には自分と同じフィールドプレーヤーで輝いてほしいと思っていたからだろう。
両親が共働きで忙しかったため、祖父・富夫さんに送り迎えしてもらいながら、元気少年は心から楽しんでサッカーに打ち込んだ。江南南が個で打開できる選手を育てるポリシーを持っていて、ドリブル第一のトレーニングをしていたことも、彼の琴線に触れた。
「江南南は低学年まではドリブルを徹底させるんです。1人がドリブルしたら他のみんながついていって、その選手がこぼしたら次の人間がドリブルを始めて、他の人が追いかけるといった練習はよくやりました。事実上のパス禁止令もありましたよ。
基礎練習も多かった。ドリブルのインサイドやアウトサイドのタッチはもちろん、1対1も相当やりました。本当にドリブルがうまくなりたいんだったら、1対1をたくさんやることは大事。相手がいない中でやっても意味がないから。それも、かわすドリブルじゃなくて、ゴールに向かっていくドリブルを繰り返した。自分の長所を磨くうえで、ドリブルがうまくなる環境で育ったことがすごくよかった」と原口自身も改めて感謝していた。
高いレベルを求める彼の努力は少年団の練習にとどまらなかった。自宅でサッカーボールと同じくらい愛情を注いでいた愛犬との1対1に挑むのも日常茶飯事。「犬がボールを奪いにくるんで、これをかわすのはすごくいい練習になった。正直、犬が手強かったですね」と本人も笑う。浦和レッズ時代によく見せていた弾丸ドリブラーの原点は、こうした地道な練習の積み重ねにあったのだ。
鮮烈な活躍で全国に名を轟かせる
本人が意欲的に武器を研ぎ澄ましていくのを横目で見ながら、一さんは課題にも取り組ませた。それが守備であり、ヘディングだった。特にヘディングは元気少年が一番嫌いで苦手とするプレー。それを承知で、父はバランスのいい選手にさせるべく、あえて取り組むように口を酸っぱくして言った。
「当時の僕は全部足元で受けてドリブルする感じだったけど、『それだけじゃダメだ』と。親父が蹴るボールをヘディングする練習はよくさせられました。大人の蹴るボールは重いし痛い。自分があまりにも嫌がると、お母さんが止めてくれることもあったけど、僕には特別に厳しかったですね。
だけど今、考えると、もっとやっておけばよかったと思います。プロになった今もヘディングはそんなにうまくないから。公式戦で決めたヘディングシュートもわずか2点。岡崎(慎司=レスター)選手なんかはヘディングの練習ばかりしていたと聞いたけど、やっぱりうまいですもんね。状況判断に優れた直輝(山田=浦和レッズ)もそうだけど、子どもの頃に何を重点的にやっていたかで、その選手の長所は大きく変わりますよね」と原口は神妙な面持ちで語っていた。
それでも、元気少年はドリブルという傑出した武器を磨きつつ、パスやシュートなど多彩なプレーを身につけ、小6のときには全日本少年サッカー大会(全少)と全日本少年フットサル大会(バーモントカップ)の2冠を達成する。とりわけバーモント決勝で兵庫FCか6点を叩き出した活躍は鮮烈だった。チームをけん引したスター・原口元気の名は、瞬く間に全国に知れ渡った。
“生意気な性格”だった元気少年
ただ、当時の彼は、悪い言い方をすれば、少しエゴイスト的な子どもだった。勝利を強く追い求めるあまり、周りの仲間に厳しい言葉をぶつけることも少なくなかったからだ。その点については、本人も「表現の仕方が少し子どもだったかな」と反省の弁を口にする。
「自分が一番うまかったんで周りにパスを出さないこともありましたね。それは純粋に自分がボールを触った方がチャンスが増えると思ったから。ミスした仲間を怒ったりしたのも、とにかく勝ちたかったから。それだけだったんですけど、周りは大変だったと思う。試合中にピッチ内の僕に怒られて、試合後には外にいる監督にも怒られるんだから。忍耐力は鍛えられたんじゃないかとは思います」と原口は苦笑いする。
彼のような飛び抜けた少年の扱い方というのは、大人にとって難しいテーマだ。頭ごなしに叱ればその子のよさを消してしまうし、何も言わないのもまた問題だろう。原口を取り巻く人々は「自分の考えを前面に押し出すのはこの子のいいところ。認めてあげよう」と温かい目で見守るスタンスを取っていた。
松本総監督は、その筆頭だった。
「私は自己主張しない日本人は嫌いですし、小学生のうちは友達とぶつからないと成長しないと思う。元気の負けじ魂は好意的に見ていました。ただ、プレーに関して自分の意思をいかに伝えるかという点は、工夫が必要だと感じた。元気が小4の頃にも『自分のメッセージを伝えるタイミング、伝え方がまだ身についてないよね。それを学んでいかないといけないね』と話したことがあります。本人はあまり納得していなかったかもしれないですけどね(苦笑)」
父・一さんも共通する考えを持っていた。
「元気は枠を飛び越えたスケールの大きな子だったし、いずれ海外に行くと思ったので、少し生意気なくらい自分を押し出すのはいいことだと捉えていました。日本人はそういう子どもの個性をつぶしがちですけど、その個性は逆に強味になる。私はそう信じていました。負けず嫌いで、好きなことには凄まじい集中力を発揮する元気の性格が、獣医をやっているウチの妻にそっくりだったことも、大きく構えられた一因かもしれません(笑)。松本さんも同じような価値観を持っていたので、本当にありがたかった。元気は本当に周囲の人たちに恵まれましたね」
彼自身も江南南時代を宝物のように考えている。「当時のチームメートとはサッカーのみならず、人生の相談もできる。それが自分にとって一番の財産です」と本人も嬉しそうに語っていた。いい指導者、いい仲間とともに日本のジュニア年代の頂点を目指し、実際にタイトルを取った江南南時代が、原口元気のベースを形作ったのは間違いないはずだ。
2004年春、原口は中学入学と同時に浦和レッズのジュニアユースの扉を叩いた。
※続きは「原口元気選手が乗り越えてきた壁。中学時代に訪れた心と身体の変化」より
プロフィール
原口元気(はらぐち げんき)
少年時代:江南南サッカー少年団
中学時代:浦和レッズジュニアユース
高校時代:浦和レッズユース
1991年5月9日、埼玉県生まれ。幼い頃からサッカーに親しみ、江南南少年サッカー団で小学生時代はプレーする。小学6年時は「全日本少年サッカー大会」と「バーモントカップ全国少年フットサル大会」の2冠に大きく貢献。中学進学とともに、浦和レッズジュニアユースに所属。その後、ユースに昇格して、2009年にはクラブ史上最年少でプロ契約を結ぶ。2014年まで浦和レッズでプレーし、さらなる飛躍のために2014年6月にヘルタ・ベルリンへ完全移籍。今シーズンからはハノーファーでプレーする。
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