人生最大の挫折――。本田圭佑がガンバユースに昇格できなかった本当の真相【後編】

2018年06月16日

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誰も自分を知らない場所へ
 

 父・司さんも、このときばかりは言葉を発することなく、厳しい現実を一緒に受け止めたという。息子は父の愛情をひしひしと感じていた。人生最大の挫折に直面したが、サッカー人生が終わるわけではない。本田はすぐに気持ちを切り替え、次の進路を模索した。祖父と祖母からは「近場の高校でええやないか」と励まされたが、彼自身は未知なる環境で再出発することを強く望んだ。

「プロになるためにどうすべきかを考えたとき、つなぐサッカーをしていて、1年から試合に出られる環境へ行くのがいいと。兄貴からは『帝京はお前のスタイルに合わない』とアドバイスされたし、名門すぎる高校はガンバユースに上がれなかった自分には確かに厳しいかもしれないと感じた。地方のほうがいいんじゃないかと考えましたね。最終的には誰もいないところへ行くという結論に辿り着いた。誰も自分を知らない場所で一からアピールして、存在を認識させたかった」

 15歳で家族の元を離れ、自身を追い込むことでプロの夢をつかもうとしていた兄の姿から勇気をもらった部分も少なからずあったはずだ。弘幸さんは帝京卒業後、アルゼンチンへ渡って2部リーグでプレー。帰国して大分トリニータと契約を勝ち取った途端、ひざの靭帯を痛めてキャリアを断念せざるを得なくなる悲運に見舞われた。それでも単身で海外へ渡ってまで貪欲に夢を追いかけた。その堂々とした生きざまを弟もリスペクトを持って受け止めたから、同じような道を選ぼうとしたのだろう。

「いつまでも親に依存していたらダメ。親というのは最終手段で、都合のいい存在。何でも許される人だと思います。日常からそこに頼っていたら人としても選手としても成長できない。いつまでも親父の言うことばっかり聞いていたら、親父を見返すことはできへん。おじいちゃんやおばあちゃんも見返すことはできへん。一度、外へ出る以上、プロになれなかったら家に帰れるはずがないと俺は思った。ホントに生半可な気持ちではなかったです」と彼は語気を強めた。
 
 15歳の本田の悲壮な決意を、田中監督もしっかりと受け止めた。

「『先生、俺、選手権に切り替えるわ』と明るく言いにきたのを、よく覚えています。夢は絶対に譲らんけど、その道筋は臨機応変に修正できる。それが圭佑やと思います」

【前編】「お前なんか絶対に一流になられへん」。”努力家”本田圭佑の原点

(続きは、『僕らがサッカーボーイズだった頃2 プロサッカー選手のジュニア時代』でご覧ください)


<プロフィール>
本田圭佑(ほんだ けいすけ)

少年時代:摂津FC
中学時代:ガンバ大阪ジュニアユース
高校時代:星稜高校

1986年6月13日、大阪府摂津市生まれ。小学2年生からサッカーを始め、10代の頃から年度別代表で活躍してきた。高校3年生時 の高校選手権では、石川県勢初のベスト4進出に貢献した。在学中の2004年に名古屋グランパスの特別強化指定選手となり、卒業後は名古屋に入団し、1年目から試合に出場するなど、チームの中心選手として活躍。08年1月、オランダのVVVフェンロへ移籍。その年チームは2部に降格したが、翌シーズンは36試合に出場し、16ゴールを挙げる大活躍でチームを1部復帰へと導く。その後に移籍したCSKAモスクワでもチームの主力としてけん引。海外での活躍が評価され、ワールドカップ南アフリカ大会日本代表に選出されると、グループリーグ初戦のカメルーン戦で決勝点をあげるなど、ベスト16進出の原動力となる。14年1月に、イタリアの名門ACミランに完全移籍を果たした。 現在はメキシコのパチューカでプレーしている。


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【商品名】僕らがサッカーボーイズだった頃2 プロサッカー選手のジュニア時代
【発行】株式会社カンゼン
【著者】元川悦子
四六判/256ページ
2014年5月30日発売

プロの道を切り拓いたの背景には、「家族」の温かい支えと、転機となる「恩師」「仲間」との出会いがあった。育成年代を追いつづけてきたサッカージャーナリスト・元川悦子氏による渾身の一冊!


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