松本山雅FCの激闘に触れる #1

2012年07月06日

サッカーエンタメ最前線

故・松田直樹さんがいた2011シーズンの松本山雅FCを追ったドキュメンタリーが1冊の本となった。著者は、『フットボールの犬』(東邦出版)で第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞した宇都宮徹壱氏。松本山雅に関しては地域リーグの時代から取材を続けてきた。著書『松本山雅劇場 松田直樹がいたシーズン』(7/19発売)は、松本山雅FCの激闘の2011年シーズンを追ったノンフィクションである。今回は、書籍の発売に先駆け、本編のプロローグを3週にわたってお届けしたい。

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松田直樹、松本山雅と邂逅(かいこう)す

7月19日発売の宇都宮徹壱著の『松本山雅劇場 松田直樹がいたシーズン』

7月19日発売の宇都宮徹壱著の『松本山雅劇場 松田直樹がいたシーズン』

新しいシーズンが開幕した。
2012年3月4日。この日、Jリーグ・ディビジョン1(J1)に先立ち、Jリーグ・ディビジョン2(J2)第1節、全11試合が全国各地で行われることになっていた。
すでに2500円のチケットを購入していた私は、東京ヴェルディ対松本山雅FCのゲームが行われる、東京・味の素スタジアムに向かった。もちろん、取材者として入場することもできたのだが、今年はいち観客としてJリーグ開幕を迎えたいという気持ちのほうが強かった。
今年で20シーズン目を迎えるJリーグ。だが、そうした祝賀ムードとは別に、東日本大震災後に初めて迎える開幕であることは、非常に重要である。
昨年、J1・J2共に開幕戦を終えたところで、日本は3月11日の未曾有の大震災に見舞われた。以後、4月23日のリーグ再開まで6週間にわたりリーグは中断。サッカーのみならず、あらゆるスポーツが活動停止を余儀なくされた。
言うまでもなく、被災地では今も震災の爪痕は生々しく、福島第一原発の事故も予断を許さない状況が続いている。それでも、少なくとも私たちはスポーツ観戦を楽しむ日常を取り戻すことはできた。ゆえに今年は、Jリーグの開幕を無事に迎えられることの有難みを、いつも以上に噛みしめることとなった。

そんな2012年のJ2に、町田ゼルビアと松本山雅が、それぞれ39番目と40番目のJクラブとして加わることになった。実は私は、J2の下のJFLのそのまた下の地域リーグの時代から、両クラブを取材している。あれからフロントや選手の顔ぶれも、さらにはエンブレムも変わったが、こうして晴れてJクラブの一員となったのは、何とも感慨深い。
とりわけ山雅については、昨シーズンのJFLでの戦いをずっと追いかけてきただけに、今日この日を迎えることを、私はずっと心待ちにしていたのである。
キックオフ30分前、味スタのアウェイ自由席の入場口は、すでに長蛇の列ができていた。この日、松本からのバスは40台。一方、電車組は京王線ジャックを敢行したそうだ。
幸い、行列がスムースに流れてくれたおかげで、さほどストレスを感じることなくスタンドに到着。すでに1階席は、山雅のチームカラーであるグリーン一色に染まっていた。ホームのヴェルディもグリーンだが、間違いなく数では山雅が圧倒している。「相手はJFL上がりの新参者」と考えていた先輩格のヴェルディサポーターも、いささか面喰ったことだろう。
キックオフ15分前になって、当初は閉鎖の予定であったアウェイ2階席がついに解放される。歓声を挙げながら入場する山雅のサポーターたち。かねてより彼らは「ウチは5000人来るから」と2階席の解放を繰り返し要求してきたが、それがハッタリではなかったことを知ったヴェルディの運営サイドは柔軟な対応を見せてくれた。余談ながら味スタの2階席が、J1未経験クラブのサポーターに解放されるのは、ヴェルディ主催のゲームでは極めて稀である。
この日の公式入場者数は、J2の11試合中最多の1万2432人。そのうちアウェイ入場者数は、半数以上の6855人であった。ちなみに、昨シーズン(11年)のJ2の平均入場者数は6423人。その数字をゆうに超える山雅サポーターが、味スタに駆け付けたことになる。

それにしても松本山雅とは、実に不思議なクラブである。
ホームタウンの長野県松本市は、人口25万人足らず。県庁所在地でもなければ、新幹線も通らない地方都市に、これほどの人気クラブが誕生するとは、果たして誰が想像しただろう。
いささか風変わりな「山雅」という名前は、設立メンバーがよく通っていた、松本駅近くにあった喫茶店(現在はない)の名前に由来している。チーム結成は、東京五輪の翌年に当たる1965年。当時は「山雅クラブ」という名称で、純然たる街のアマチュアクラブであった。
設立から10年後の75年、発足したばかりの北信越リーグに加盟。以後、山雅クラブは一度も長野県リーグに降格することなく活動を続け、85年には初優勝を果たしている。北信越リーグが1部・2部制となった04年には2部からのスタートとなったものの、翌05年には優勝して1部に昇格。その間、松本からJリーグを目指すべく「NPO法人アルウィンスポーツプロジェクト(ASP)」が発足し、ここから「本気で上を目指す戦い」が本格化する。
その後、山雅は北信越1部で4シーズン戦い、その間にさまざまな紆余曲折があったものの、09年の地域決勝(全国地域リーグ決勝大会)で見事優勝を果たし、JFLに昇格。そしてJFL2年目の昨シーズンは、J2昇格の条件である4位以内をクリアして、ついに念願のJリーグ入りを果たすこととなった。

(C)tete Utsunomiya

とはいえ、ここまでは「よくある話」。現在のJクラブの多くが、地域リーグやJFL、そしてJリーグへと続く長く険しい階段を、時に足踏みを強いられながらも根気強く上ってきたからこそ今がある。何も山雅だけが、特別な艱難辛苦(かんなんしんく)を強いられてきたわけでは決してない。
確かに彼らの昇格の物語は、それはそれで感動的ではあった。とはいえクラブ自体に、輝かしい歴史があるわけでもなければ、代表クラスの有名選手がいるわけでもない。また、世界を知る名将に率いられているわけでもなければ、特段にモダンで美しいサッカーを実践しているわけでもない。ごくごく普通の、典型的なローカルクラブである。
ではなぜ私は、山雅というクラブを、とりわけ縁もゆかりもなかったにもかかわらず、シーズンを通して追いかけることになったのか。
それは、このクラブに何とも名状し難い魅力、否、魔力を感じるようになっていたからだ。
「このクラブには近づき過ぎないほうがいい」
松本山雅の魔力について、極めて明確に喝破した人物がいる。私の友人で、かれこれ20年近く地域リーグをウォッチしている、吉田鋳造である。吉田は、山雅が09年の地域決勝で優勝した際、自身のホームページ「吉田鋳造研究所」で、こう記している。
「恐いんですよ。松本山雅というクラブを観ていると。ひきずりこまれそうな気がして」
当時は、その意味するところがよくわかっていなかった。だが、取材を重ねるうちに、痛いほど理解できるようになった。単なる「昇格を巡るドラマ」という言葉だけでは説明できない、観る者を無我夢中にさせ、気が付けば引きずり込まれてしまうような「何か」が、この山雅というクラブには間違いなく内包されている。
「オオ、オオーオオーオーッ オオ、オオーオオーオーッ 勝利を目指してー さぁ行くぞ、山雅 走り出せー 松本山雅 掴み取れー 今日の勝利をー」
キックオフ10分前、アウェイスタンドの山雅サポーター全員がタオルマフラーを両手で掲げて『中央線』を歌い始める。THE BOOMの同名の曲をアレンジしたチャントだ。
やがて、ファンファーレが流れて選手入場。すると『中央線』はアップテンポとなり、一斉にマフラーが振られる。スタンドの一角だけが、大袈裟でなくドイツのブンデスリーガのように見える。J1の人気クラブではなく、JFLから上がってきたばかりの地方クラブが、これだけの高揚感を演出できるのだ。それはある意味、20年目のJリーグを象徴する光景であった。
ふと緑色の波は濤とうの中に、青いユニフォームが混じっているのを見つける。それは、横浜F・マリノスのレプリカであった。ホームもアウェイもグリーン一色という、この日の味スタのスタンドにおいて、F・マリノスのトリコロールは明らかに場違いのように感じられる。しかしながら、背中にプリントされた「3」の数字を見れば、誰もが「ああ……」と納得するだろう。
それは昨年(11年)、F・マリノスで永久欠番となった故・松田直樹の背番号であった。
F・マリノスのファンと思しき彼は、松田の「3」を背負って山雅の晴れの日に立ち会うことに、おそらくある種の使命感を抱いていたのであろう。松本山雅というクラブを愛し、プライドを持ち、そして誰よりも山雅のJ2昇格を熱望していた男――それが、松田直樹であった。

※『松本山雅劇場』より一部抜粋(文・写真●宇都宮徹壱)
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