『フットボールサミット第10回』重版が決定! 内田篤人選手の高校進学における覚悟

2013年01月11日

サッカーエンタメ最前線

早生まれセレクションで年代別代表に選ばれる

この試合は敗退してしまったが、右サイドをがむしゃらに走りぬく丸坊主の初々しい1年生MFは、この場所を主戦場にして成長をしていく。そんな彼に第二の幸運がやってきた。

写真●Kenzaburo Matsuoka

高1から2年生に上がる春の時、日本サッカー協会は「早生まれセレクション」を立ち上げた。このプロジェクトは1988年1月1日~3月31日生まれを対象に、応募制で早生まれを集めてセレクションするもの。

なぜこういうプロジェクトが立ち上がったかというと、U-17、U-20の年代別代表は、1月1日生まれで以降で区切られるが、日本の区切りは4月1日生まれ以降で、年度の境目とするため、1学年上に当たる1月~3月の早生まれは代表に入ることができるからだ。

早生まれのメリットは、学年が1年上で、他の選手より多く経験を積んでいること。この年代の代表強化のため、日本サッカー協会は早生まれ選手の発掘と育成に取り組みだした。その第一世代に、内田も含まれていたのだ。
「会場が清水のJステップだったこともあって、ウチの学校にも応募してくださいという通達が来た。それでウチの1年生を探した時に、早生まれがあいつしかいなかった(笑)。いろんな地域から自信を持った子たちが集まってくるから、勉強して来いと、本人に勧めました」

梅田の働きかけに、内田本人は、「行ってみます」と一言残し、彼は早生まれプロジェクトに参加した。筆者もその早生まれプロジェクトを取材していたのだが、内田の印象は、前年の選手権県予選で見た通り、スピードはあるが一際線は細く、はっきり言って荒削りだった。
「帰って来たときは『ダメでした』という感じでしたね(笑)。当時U-16代表監督だった布(啓一郎)さんからも、その時の様子の文面をもらったんです。その紙にはこんな様子だった、こんな選手だった、こういうところが課題だったと書かれていました。要はまだまだこれからという評価だったんです。僕もそれを見て、『まあ引っかかることはないな』と思っていたんです」

その年の3月、内田は清水東の一員として、岐阜県大垣市でサッカーフェスティバルに参加していた。筆者もその現場にいたのだが、それまでFWかサイドハーフなのかはっきりしていなかった内田が、右サイドハーフのレギュラーとしてノビノビとプレーする姿を見ることができた。
「チームのコンセプトが両サイドをうまく使って攻めようということで、サイドに速い選手を配置していたんです。内田のスピードを生かすにはここだと思ったし、左足はそんなにうまくなかったので、右しかないなと(笑)」(梅田)

非常にキレのある動きと、思い切りの良い仕掛け。トップスピードに乗って右サイドを切り裂いていくプレーに、躍動感を感じたのを覚えている。ちょうどその時、当時のU-16日本代表コーチ・安達亮が視察に訪れていた。「成長している。面白い存在」と、U-16日本代表に、早生まれプロジェクトによって発掘したこの人材を招集することになった。これまでまったく代表とは縁のなかった、無名の内田が年代別日本代表に選出された。そして、豊田国際ユース、北海道国際ユース、AFC U-16選手権と出場を重ねていった。
「代表に行くようになってから、サッカーに対する考え方が変わって、すごくうまくなりました。サッカーをより知ったんだと思います」と多々良も、この頃の内田の成長に、驚きを隠せなかったという。
「2年になって僕らがレギュラーになったんですけど、僕がボランチでプレーすると、あいつがすごくいいタイミングで上がってくれるので、出しやすかったですね。ボールを受けたら、真っ先にあいつを見ていました」(多々良)

※『フットボールサミット第10回』P112-119より抜粋(文●安藤隆人)
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中学時代に決意し、高校進学で内田選手は、この後にもう1つの転機が訪れる。この続きは『フットボールサミット第10回』をご覧ください。

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