サッカーをやめようとさえ考えた。酒井宏樹の“運命を変えた”サイドバックへの転向

2018年06月27日

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ジュニア時代、所属していた柏マイティーでストライカーとして活躍していた酒井宏樹選手。中学に上がると同時に柏レイソルのジュニアユースに入団したものの試合に出場できず「サッカーをやめようとさえ考えた」という。そんな酒井選手のサッカー人生を変えたのはサイドバックへのコンバートでした。

「正直、レイソルは好きじゃなかった」。酒井宏樹はなぜJクラブへの進路を選択したのか

文●元川悦子 写真●GettyImages

『僕らがサッカーボーイズだった頃 プロサッカー選手のジュニア時代』より一部転載


BRUGGE, BELGIUM - NOVEMBER 14:  Hiroki Sakai of Japan in action during the international friendly match between Belgium and Japan held at Jan Breydel Stadium on November 14, 2017 in Brugge, Belgium.  (Photo by Dean Mouhtaropoulos/Getty Images)
中1で味わった最初の挫折

 富勢中学校に入学した2003年春。酒井はレイソルジュニアユースの扉を叩いた。同じ柏市内とはいえ、自宅から日立台はそう近くない。彼は学校が終わるやいなや、自転車か電車を使って1時間近くかけて練習場へ通う日々を送ることになった。

 家に帰るのは21時過ぎが普通。しかも酒井家では「サッカー選手になれないかもしれないから、勉強もしっかりやりなさい」と言われていたため、練習が休みの週2回は進学塾にも通っていた。

 生活環境に加え、練習の難易度が上がり、仲間もレベルアップするというプレー環境の激変も重なった。慎重派の酒井はもともと適応に時間がかかる傾向が強く、中学1年生のときはほとんど試合出場機会をつかめなかった。

「小学生のときは思い通りのプレーをしていたのに(中学生になって)全然出られないでしょ。自分が下手になっていく気がしましたね。試合に出ていないと、ひとつ怒られるだけでもなかなか立ち直れなくなってしまう。チームが勝っても、どんよりした気分で帰ることも多かったですね。だけど、親の前ではそういう顔をしたくない。わざと明るく振る舞ったりしていました。中1から中2にかけてが最初の挫折だったかもしれませんね」

 不完全燃焼感にさいなまれ、サッカーを辞めようかとさえ考えた酒井の前に現れたのが、当時U-15を担当していた恩師・吉田達磨監督だった。1年生の冬、2004年1月のナイキカップ予選からジュニアユースの指揮を執りはじめた吉田監督は、彼の潜在能力の高さをすぐに見抜いた。

「酒井は当時、右サイドのアタッカーだったんですが、走るストライドが広く、スペースに抜け出るのがうまくて、クロスもいい感覚で上げていました。身長は160センチ台でしたが、ご両親もお兄さんも長身だったし、本人も手足が長くて、いずれ大きくなるのはわかっていた。ビッグサイズのアウトサイドは日本には皆無に等しい。そういう特徴が彼の武器になっていくだろうと確信したんです」(吉田氏)

 だからこそ、指揮官は酒井を激しく鼓舞した。

「練習から100パーセントの力を出して、限界までやれ。手を抜くな!」
「1対1では絶対に負けるな!」
「お前たちがレイソルの将来を作っていくんだぞ。その自覚をもて!」

 こうした叱咤激励が、ナーバスになりがちだった酒井の心にじわじわと響いていった。  

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