なぜ全日本少年サッカー大会は生まれたのか。大会の礎を築いた男の情熱と哲学

2017年12月22日

コラム
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今年で42回目となった全日本U-12サッカー選手権大会(旧:全日本少年サッカー大会)。1967年に始まった本大会の前身となる全国少年サッカー・スポーツ少年団大会から45年以上、このジュニアサッカー最大のイベントの礎はいかにしてつくられてきたのか。日本サッカーの早期から選手育成に関わり、ジュニア世代への熱い視線を送り続けてきたパイオニア、大澤英雄氏(国士舘大学理事長)の言葉に耳を傾ける。

文●木村元彦 写真●佐藤博之

『ジュニアサッカーを応援しよう!Vol.5夏号』P138-147より転載

※この記事は、2013年6月2日に掲載されたものを再編集したものです。


試行錯誤の連続だった全日本少年サッカー大会

 全日本少年サッカー大会が、日本サッカーにもたらした影響は計り知れない。前身となる全国サッカー・スポーツ少年団大会が始まったのが、1967年。45年以上の歴史となる全国大会は県外での試合を禁止されていた小学生たちの環境に風穴を開け、ジュニア世代に大きなモチベーションを与えた。『キャプテン翼』もプロリーグもない時代。小さな選手たちは東京に読売ランドという聖地があることを知り、情熱を燃やした。

全少


【まもなく開幕】JFA 第42回全日本U-12サッカー選手権大会 特設ページ


 小笠原満男(鹿島アントラーズ)が盛岡太田東サッカー少年団の時に書いた作文。

「ぼくは、一度読売ランドでサッカーをやりたいと思っていました。それが、岩手県大会で優勝したので、その願いが通じた時はとてもうれしかった。(中略)決勝トーナメントには進めませんでした。準決勝や決勝を見て、蒲町や下都賀の10番の選手がとてもうまいので、ぼくは追いつき、追いこせるようがんばりたいと思います」
(『全日本少年サッカー大会 第10回大会記念誌 少年サッカー大会の歩み』(財)日本サッカー協会発行より

 ジュビロ磐田のカレン・ロバート(現リアザーヘッドFC/イングランド7部)はこう回顧する。

「それまで見ることがなかった全国のハイレベルな同級生たちがたくさんいることを知らされました。自分自身は今現在とは全く違うボランチというポジションで背番号2での出場ではありましたが、3得点あげられたことが一番の思い出です。優勝という結果はその後の自分に大きな自信をもたらしより高いレベルを目指すきっかけとなりました。

 試合に出場し得点もあげられた、そして全国優勝したということで日本代表選手になりたいという大きな目標ができました。世界を目指す夢も広がり、仲間と一緒に努力をすれば必ず得るものがあると子どもながらに思えました」

 ジェフユナイテッド千葉の羽生直剛(現FC東京強化部)は、少しの悔しさをにじませながら子どもたちにエールを送る。

「小学校6年生の時に、全国大会に出ました。僕のチームには、村井(慎二 現城西国際大学サッカー部コーチ)君とかが一緒で、チームとしては、ベスト8かベスト4までいきましたから、とても良かったと思います。とにかく暑かったのを覚えてます。1日2試合は大変でした。

 ポジションは今と同じトップ下でした。県大会では点も結構とって、活躍できたんですけど、確か本大会では、得点できなかったと思います。予選リーグで10点以上取って勝った試合でも、自分は点が取れなくて悔しかった記憶がありますね。

 大会に出場する選手たちには、全国に行けることだけでも十分素晴らしいことなので、全国大会という場を、楽しんでもらいたいと思います」

 小学生レベルでの全国大会というのは、実は世界に目を向けても珍しい。組織や大会をオーガナイズすることを得手とする日本人の特徴かもしれないが、もしも、全少がなければ、現在のサッカーシーンは全く違ったものになっていただろう。

 物心ついた頃から路地裏でボールを蹴りだす欧州や南米の子どもたちと違って、日本の子どもにはそれをさせる文化も環境も未成熟だった。全少はまだサッカーがマイナースポーツだった頃から子どもたちにそれを与えてきた。

 今回はこの大会の成立に粉骨した大澤英雄氏(現国士舘大学理事長)に話を伺った。

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