岡崎慎司の成長物語。「どこにでもいるサッカー少年」が本気でプロを目指すまで

2018年06月28日

育成/環境
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岡崎はどこにもいる、ごく普通のサッカー少年

 それだけ多くのクラブが切磋琢磨しているのだから、上の大会に出るのも至難の業だったのだ。

「僕自身も目先の宝塚の大会で勝つことで精いっぱいでした。そこで勝てれば北摂大会に出れるんだけれど、県大会には一度も行けなかったですね。僕自身も北摂選抜には一応入っていましたが、県トレセンだとか代表だなんて考えたこともなかった。プロになろうとも思っていなくて、Jリーグもストイコビッチがうまいってことくらいしか知らなかったです」

 とりたてて際立った経歴もなければ、全国大会に出たこともない……。小学生時代の慎司少年は、どこにでもいる、ごく普通のサッカー少年だったのである。

 岡崎は兄・嵩弘さんと同じように、三田市立けやき台中学校に入学してからも宝塚ジュニアに通った。中学のサッカー部からも「入らないか」と誘われたが、宝塚で試合に出たいという気持ちが強かったため断った。

 それでも、クラブが休みの日は練習に顔を出し、学校の友達とボールを蹴ることは少なくなかった。一方で、宝塚ジュニアの方は指導体制が変わった。山村コーチが社会人になり、ほとんど練習に顔を出せなくなったことから、小学生の頃から監督として岡崎らを見守ってきた田尻克則現会長が表に出て、指導するようになったのだ。

 田尻会長は1978年のジュニアチーム設立、96年のジュニアユース発足を一手に引き受けてきた人物で、岡崎兄弟をはじめとして数多くの少年たちを教えてきたベテラン指導者。豊富な経験を活かして、山村コーチに以上に個性的な教え方をしていた。まずは選手たちには、必ず全員に出場機会を与え、サッカーを楽しむように促した。

「慎司たちのときは1学年17人だったんですが、試合では大胆に半分を入れ替えるようなことは結構していました。慎司はFWだったんですが、自分から『GKやります』と進んで言ってくることが多かった。GKでもいいからずっとグラウンドに立っていたかったんでしょうね」と語る田尻会長は、そんな岡崎の姿勢に感心していた。

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