「走るのが苦手で辛かった」 日本代表・川島永嗣がゴールキーパーになるまで

2018年07月05日

コラム
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大宮・浦和の下部組織ではなく地元の中学へ

 5年生になった1993年春にJリーグが発足し、彼の中でプロサッカー選手になりたいという夢は膨らんでいった。だが「今は野球が楽しいから、サッカーは後から練習すればいい」と楽観的に捉えていた。そんな感覚を思い切り打ち砕かれ、目が覚めたのだという。

 これ以降は真面目に練習に通い、苦手な走りにも精力的に取り組んだ。「少しは速くなりましたよ」と本人も嬉しそうに話す。竹内監督も永嗣少年の様子を見て「頑張り屋で前向きな子だ」と改めて感心したようだ。

「サッカーは走るのが基本ですから、少年団ではランニングも当然やらせます。永嗣は練習に来ない時期があったのかもしれないけど、もともと嫌いなことでも前向きに取り組む一生懸命な子でした。あの真っ直ぐな姿勢はご両親から受け継いだものだと思います。ご両親は当時、仕事でお忙しかったですけど、いろんな活動を手伝ってくれたし、子どもに親身に接していました。ああいう親御さんなら子どもは曲がったりしない。永嗣みたいな努力型の人間は、お父さんとお母さんの努力を見て、大きな影響を受けたんだろうと感じます」(竹内監督)

 結局、少年団時代はGKではなく、スイーパーとしてプレーし続けたが、チームは埼玉県南部大会に勝ち上がるのが精いっぱい。その悔しさもあって、永嗣少年はより高いレベルを求めた。この頃、すでにJリーグの下部組織も発足し、近くに浦和レッズ、大宮アルディージャのジュニアユースがあったが、地元・与野西中学校がちょうど全国大会に連続して出場。柏悦郎監督という日本中学体育連盟(中体連)理事・サッカー部長を務めたこともある重鎮の指導者がいることも分かった。

「ならば中学でサッカーをすればいい」と彼は考え、1995年春に上のカテゴリーに進んだ。

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